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2011年03月01週
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 聖書研究祈祷会で、ヨハネによる福音書を読むにあたって、「ヨハネによる福音書」(R・ブルトマン著、杉原助訳、日本キリスト教団出版局)を参考書にしてきました。というか、ヨハネ福音書は、手元の新約聖書によれば、40〜50ページ、ブルトマンの注解書は注を加えると1000ページを超えますが、それを5年くらいかけて同時に読んできたことになります。原書は、1937年に分冊の形で刊行され、1941年に完結したと言われますから、約70年前の著作ということになります。古い書物なのです。それが、60年後に翻訳されることになったのですが、今も、ヨハネによる福音書を読む場合、基本で、避けて通ることのできない文献だと言われています。それは、聖書という古代の文献を読むにあたっての、基本的な態度ということでは、譲ることも逸脱することもなく書かれた書物だからです。聖書は、古代から一貫して“神の言葉”として読まれてきました。前提として、神の言葉という定義があって、神の言葉である聖書をその決まった枠の中でどう読み、どう解釈するかで、そこから逸脱することは、逆に許されませんでした。ブルトマンは、新約聖書の研究において、“歴史的・批判的”という、研究方法を徹底したという意味で、譲ることも逸脱することもしなかった、その意味で誠実な聖書の研究者でした。どうであれ、自分の思想的・信仰的立場で聖書ッヨハネによる福音書を解釈してしまうのではなく、歴史的・批判的研究の対象として読むことを徹底したのです。


 ヨハネによる福音書は、「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった・・・」で始まります。ブルトマンは、そこのところを「・・・それにしても風変りな導入ではある。この序文は普通の意味での導入やまえがきではないからである。以下の部分の内容や構成への指示はまったく欠けている・・・」と言います。要するに唐突なのですが、唐突だからこそ特別の意味があると考えたりしません。そうして、唐突であり、ブルトマンによれば「風変りな導入」なのですが、それがどうしてヨハネによる福音書の冒頭に置かれているのか、その意味について、たぶん膨大な量の研究の成果をもとに、歴史的・批判的に注解します。ヨハネによる福音書のような、新約聖書の文書が書かれ、かつ残されることになったのは、いくばくかの偶然の働きがなかったとは言えませんが、古代社会とその社会に生きる人たちが、自分たちの書き残したいことを、可能な限り、力を尽くして、それまでに残された材料を使ってその形に仕上げたであろうことを、歴史的にたどって、論証して見せた成果が、たとえば、ブルトマンのヨハネ福音書注解だったりします。新約聖書という“文献”を過小にも過大にも見ず、しかし、その書物を書き残した人たちの心血を注いだ結果が凝縮されていることを明らかにする、ブルトマン自身が露わになっているようにも読めます。単に燈カ献狽ニして読んでしまった時、古代社会にそれを書いた人たちの意図の多くは、読みとれなくなってしまいます。たとえば、“風変わり”とも見られる序文「この神話が物語や思弁の形で述べられてはいない」のだとすれば、意図されているのは、「語り手、聞く人を含む『私たち』」の問題である、ということこそに行き着きます。そして「形式からすれば、この序文は一片の祭儀的・典礼的な詩であり、啓示講和と信仰告白との間をゆれ動いている」のだけれども、読者を「日常の世界から新しく未知な、楽音と人物の世界に連れ出す」、心躍らずには置かない言葉として聞こえてくるのです。
5年余りかかって読んできた注解書の最後の部分、ブルトマンによれば“付録:21章”、更に最後の部分を3月2日の聖書研究祈祷会で読みました。21章が付録であること、(要するに、それがヨハネによる福音書の著者によるものではないことに) 、そして、付録そのものの意図についても、ブルトマンは余すところなく言及します。たとえば、ペテロのことが、21章18、19節では(イエスの言葉として)以下のように言及されています。「『・・よくよくあなた(テペロ)に言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのまま歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯をつけ、行きたくない所へ運ばれて行くであろう』。これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すためである」。そのペテロについて、何か言い得るとすれば「・・何らかの教会政治的な傾向〜たとえばローマ教会の権威に対する支持〜はまったく無縁である」ということになります。


 ヨハネによる福音書21章は、「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文章も収めきれなくなるであろう」で、終わりになります。21章を付加した著書が、それが際限がなくなってしまうことについて、自分で締めくくっている、そのように読めるというのが、ブルトマンの見解です。聖書という書物は、その本来の目的と同時に、著書の本音を露呈させながら成り立っているということでもあるのです。
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