原子力発電所で取り返しのつかない事故が起こって、それが収拾のつけようのない事態であるのに、同じように危ない原子力発電所のことが問題になることはありません。問題になっているのは、夏の「ピーク時間帯」の電力の供給をどうするか、その対策として検討されているのが、「ピーク時間帯の電力の使用制限」です。中でも、東京電力は「今夏の電力需要のピークは、昨年並みならば6000万キロワットだが、東電の供給能力は4500趨怎Lロワットに止まる見通し」、で検討されているのがピーク時間帯の電力使用制限です。2011年3月11日まで、家庭などを含め使用するだけの電力がクリーンエネルギーとして、供給されることになっていました。すべてではありませんが、クリーンエネルギーの約35%は原子力発電によるものでした。
原子力発電所の事故のことを知らされる度に気が滅入ってしまうのは、それが収拾の目途がたたない事故であり続けることです。人の作った原子力発電所なのに、大きな事故になった時、それは決して人を寄せ付けません。そこから飛・拡散する見えない“毒”が人や自然に襲いかかります。
大きな地震や大きな津波は、解っているだけでも3万人近い人の命を奪い、住んでいた村、街を破壊してしまいました。しかし、破壊された村、街に足を踏み入れ、そこに立って、そこに伏して泣くことはできます。それが起こってしまった後で、生きる力の全てを萎えさせたりはしません。それも含めすべては自然の中で生きる人の営みとして、了解させる説得力を持っているのが、大きな地震であり大きな津波です。たとえば、海を愛し、里を愛して生きることに尽くし「森は海の恋人」を生きて書いた畠山重篤さんからも、自然はそのすべてを奪ってしまいました。しかし畠山さんは「・・・たとえどんなことがあっても、漁師は海から離れられないと思うのです」と、がれきの前で海を見つめていました(3月23日、朝日新聞)。(3月6日に、にしきた公園まつりの特別講演会で、田中克先生に教えていただいたのが気仙沼の漁師畠山重篤さんです)。
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