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小さな手大きな手

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2011年07月03週
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(前週より続き)
 地球で生きてきたすべての生きものは、地理、気象条件などの自然を受け入れることで生きてきました。人間の歴史で言えば、地理、気象条件が衣食住など生活のすべてに及び、それを生活文化の多様な営みとして生きてきました。それらすべてを変えてきたのが電気の力です。電気による人工的な光や熱で、多様だった生活文化を地理、気象条件を超えて均質化しました。電気によって作り出された様々な情報手段は、別の意味で生活文化の均質化を促すことになりました。それを作りだす為の電気の需要は増すばかりでした。そうして電気が当たり前になって、足らなくなった電気を充たす手段の一つとして選ばれたのが原子力です。圧倒的な破壊力で兵器となる力を、小出しにして熱源として使う原子力は、効率的な発電手段と考えられました。原子力を熱源として利用する原子力発電は、もとになる圧倒的な破壊力を小出しにして使うと同時に、猛毒の放射能を生み出していますから、2重3重に閉じ込める必要がありました。しかし、原子力を“閉じ込めて利用する”には、そうであるが故の無理と危険が伴っていました。核爆弾ともなり得る圧倒的な破壊力を閉じ込め、同時に絶対的な安全も確保するという矛盾です。電気という魔力の為に、壊れてしまえば手出しできなくなるものを、操れないことを前提に使うことにしたのが原子力発電です。
 その原子力発電所が大きな事故になってしまいました。猛毒を閉じ込めることが出来なくなった、壊れた原子力発電所からは、既に大量の放射能・猛毒が環境・大気中に放出されてしまいました。壊れた原子力発電所は新たな爆発の可能性を秘めながら、猛毒で、人が近づくことを拒んでいます。
 壊れても壊れなくても、放射能・猛毒を出す原子力発電所は、2重3重に厳重にそれを閉じ込めて、絶対に外には出さない結果、絶対安全であることになっていました。閉じ込めてかつ取り出すことで成り立つ装置は、どうであれ相反する力を操ることになります。しかし操れなくて大きな事故になってしまいました。需要が増えた分の電気を供給する為、そこに企業の利害も加わって、絶対という空約束をいっぱい積み重ね、取り返しのつかない事態になっているのが、東京電力福島第一原子力発電所の事故です。
 事故から4ヶ月経った今も、復旧の目途は立っていません。既に、140万テラベクレル(と言われている)の放射能・猛毒を、環境、大気中に放出し、その為に避難せざるを得ない人たちが10万人を超えています。電気とその「効率」を代償に、生活の全てを奪われ、更に「放射能と生きる」ことを余儀なくされた人たちです。その中には、放射能・猛毒の影響に、誰よりも晒されることがあってはならない子どもたちが含まれています。そうして「放射能と生きる」そこは、「誰からも、何からも庇護されず、放置されているところだ。ただひたすら、痛みと悲しみと苦しみが、絶えずやって来るところだ。未来も希望も一切なく、終わりさえないと感じられるところだ」という意味では地獄です(「ぼくらの文章教室」高橋源一郎、小説トリッパー、2011夏季号)。
 「…晴れた春の日の朝、ひとつの村の人々がそろって畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして」と語るようにはなりにくいのです。なぜなら、見えない猛毒・放射能は、「ひとつの村」だけではなく、いくつもの村を、これから先ずっと住めなくしてしまうのですから。そして、中でも子どもたちが住んではいけない「村」は、住めなくなった村の周囲にも広がっています。今、しなくてはならないことがあるとすれば、「夢想」はそれとしてあるとしても、一人でも多くの子どもたちを、見えない猛毒・放射能の地獄から可能な限り遠くに避難させることのように思えます。 height=1
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