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2011年07月04週
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「言霊」(ことだま)は、「苦海浄土」などを書いた石牟礼道子と、免疫学者の多田富雄との往復書簡集です。「雄々しい精神力」と「人間精神の崇高さが克明に記録された」正真正銘の魂のこもった言葉のやり取りが、書簡集「言霊」です。言葉が限りなく軽くなっている時に、言葉が魂の叫びとなって、人の心をえぐり、極限を生きる人の魂をゆさぶり合っているのです。
石牟礼道子も、多田富雄も、自分にしかない極限を生きます。誰も計ることも代わることも出来ない世界です。なのに、この孤立した魂は響き合っているように聞こえます。1934年生まれの多田富雄は、2001年に脳梗塞で倒れ、右半身麻痺と仮性球麻痺の後遺症での構音障害、嚥下障害となります。「しかし、高度の嚥下障害という後遺症を残し、食物や水を飲み込むのが困難となりました。私にとって、食事の時間ほど苦痛な時はありません。まさに地獄です。ほんの小さいもの、たとえば納豆一粒でも、気管に入った時の苦しみはたとえようもありません。麻痺のために、排除するための咳払いさえ出来ず、スポンジブラシで喉を突いて、強制的に咳を誘発して吹き飛ばすほかありません。・・・昨年の春には、前立腺癌が見つかりました。試験穿刺を受けるために東大病院に入院しました。結果は、すでに骨盤リンパ節に転移があり、切除は不可能な段階でした。・・・退院後も尿道に管(尿道カテーテル)を入れられた生活を余儀なくされました。いつもお尻に焼け火箸を突きさされているような痛みに耐え続けなければなりません・・・」(前掲「言霊」、多田富雄、藤原書店)。という受苦に身を置いて、石牟礼道子の「苦海浄土」の哲学的意味を問い、受苦を生き自分について「人間は受苦によって成長しますが、気を許すと人格まで破壊されます。今は苦しみに対抗して、何とか魂の方が優位に立つことが、私のささやかな生きがいになっています」と書きます。
石牟礼道子の生きた世界は、たとえば「現世が奈落だという感じはかなり幼い魂でとらえておりました」、しかし「ほとんど無文字の、全く自己を持たないかのような田舎の世界でしたが、ここには虚無的な捨身ともおもえる優しさが生きておりました」「づかづかとはいりこんでくる他者にさえ、無私に近いほどの親切をそれとなくほどこし、気どられないように居心地良くさせてお帰りいただく、と書けば打ちぬけたくなるのですが、母につらなる世界のことでございます」と書く世界です。そして、若い職人の経文のことを書き「今思えば、無学なこの石工職人が表現したかったのは、一般教養としての仏教ではなく、どん底の人間の生存の核心だったろうと思います」(前掲「言霊」、石牟礼道子)。免疫学を、学として生き方として極めた人と、ほとんど無文字の田舎の世界を生きた人の書簡が、それぞれ全く異なった世界を生きた人の言葉が、言霊の交わし合いになっているのは、それが受苦を破壊されずに生きる人と、現世の奈落を見て生きる人との対話であるからのように思えます。いずれも「受苦、それも浄土かなと思い」、「水俣の永遠の『苦』を、『浄土』と見立て」、受苦を受苦として、奈落を奈落として引き受ける、対話者の言葉の一つ一つが、人の生存の意味をつまびらかにするという意味で哲学的なのです。
つい最近「生涯被曝100ミリ案」という言葉に出会い、目も心もシロクロさせられています。人がその生涯で100ミリシーベルトの放射能を被曝するということはあり得ることです。一般論として、怖いことですよ、気を付けましょうという意味だったらです。しかし「生涯被曝100ミリ案」は違います。東電福島原発の大きな事故で、事故から130日経った福島市の大気中の放射線量は、7月21日で毎時1.20マイクロシーベルトです。年間被曝線量1.20×24×365=10512マイクロシーベルトになってしまいます。「生涯被曝100ミリ案」の、10分の1を1年間で、確実に現実のこととして被曝する事態なのです。大きな事故で大量の放射能を大気中に放出した、3月12日から3月23日までの分は含まれていません。今、「生涯被曝100ミリ案」は、東電福島原発の大きな事故で、たとえば福島市の多くの人たちが、1年間で約10ミリシーベルトの放射線を被曝することを想定した上での予防線のように思えてなりません。そんなことになったとしても、想定内のことですから、大騒ぎしなくてもいいのですよと、その時を想定しての「生涯被曝100ミリ案」らしいのです。言葉が、「生涯被曝100ミリ」を受け入れさせるの道具として使われているのです。言葉が「言霊」でないのはもちろん、言葉が人の心をもてあそぶ道具になっています。
ほんの4ヶ月前まで、普通の人の生活の中に放射能も、放射能という言葉も存在しませんでした。結果から言えば、起こるべくして起こった、東電福島原発の大きな事故で、普通の人の生活が放射能抜きではあり得なくなりました。「生涯被曝100ミリ案」は、「放射能と生きる」ことがあたかも自然であるかのように誘導する言葉として使われています。使われているように思えてなりません。
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