10月16日は、東北の被災地、石巻の夏祭りに参加した、若いボランティアたちの報告会でした。夏祭りの準備会で、「祭りのプログラムで落語会をしたい、ついては落語家を探している」と聞き、にしきた寄席で世話になっている落語家の桂雀三郎さんに“ボランティア”で引き受けてもらいました。前日の8月18日、伊丹空港で合流して、(雀三郎さんと、もう一人は桂あさ吉さん)仙台入りし、その夜はどんな落語会が実現できるのか、宮城学院女子大学の新免貢先生、長期派遣ボランティアの庄司宜充さんも加わって、遅くまで飲みながらの話になりました。大地震と大津波、その被害が一番大きい町の一つの石巻で“笑ってもらう”ということで、雀三郎さんもあさ吉さんも、少なからずの緊張ととまどいは隠せない様子でした。19日は、2人とは別に石巻に向い、あっちこっちでこぼこする三陸自動車道を走り、石巻港インターで下り、石巻市街に近づいて気付いたのは、住宅等がほぼそのまま残っているのに、その周囲で背の高い杉(だと思った)が赤茶けて立っている様子でした。夏祭りの会場の、石巻教会・石巻栄光幼稚園の庭でも並んで立っている大きなヒマラヤ杉の葉っぱが根元の積み上がっている様子を見て、大地震の津波の海水につかって枯れてしまったことに気付きました。海、港から約2キロの少しだけ高い位置の石巻教会・石巻栄光幼稚園は床上浸水に留まりましたが、庭の樹木のうちの、ヒマラヤ杉、ハナミズキ(?)、フジダナなどは、海水に浸かって枯れてしまいました。
以下、その石巻教会・石巻栄光幼稚園の夏祭りにボランティアとして参加した若者たちの報告です。石巻は、人口約16万人の町で、6千人近い人たちが亡くなったり、行方不明になった、3月11日の大地震・大津波の最も被害の大きかった町の一つです。報告集会では、「お店に、お客さんが来てくれて、喜んでもらえてうれしかった」「いいプログラムで、いいボランティアとしての働きができたと思う」「夏祭りに集まった子ども達は、被災地でも同じ子どもだった」「夏祭りは、ボランティアとしても楽しむことができた」などの感想が相次ぎました。
しかし、「大きな自然災害の現場で、ボランティアとして働いた意味を語ってほしい」と改めて問われ、「もう一度、自分の意志で、自費で行ってみたい(8月の“夏まつり”は、交通費、滞在費など、主催者持ち)。」「夏まつりの準備だけではなく、被災地で被災者と直接出会ってみたかった。」などの意見が出されたりもしました。
大地震、大津波から5ヶ月余り、約16万人の町で、6千人近い人たちが亡くなったり、行方不明になったりする大災害で、3月11日から始まったのは非日常の生活でした。一見、日常の生活に戻っているように見える場合でも、どこかで非日常が露出してしまいます。大きな自然災害の被災地のボランティアは、非日常を生きざるを得ない人たちと出会います。10月16日の報告会でボランティアとして働く意味を問われ、夏祭りだけで終わらない、東北の被災地と自分との出会いが、ボツリ、ボツリと話題となりました。
石巻の夏祭りの落語会で、集まった人たちは笑いました。しかし、2人の落語家の熱演にも関わらず、“大笑い”という様子ではありませんでした。石巻は、人口約16万人の町で、6千人近い人たちが亡くなったり、行方不明になった町です。多くの人の日常が、すべてひっくり返ってしまいました。しかし、夏祭りは、若いボランティアたちの報告にある通り、どこにでもある日常そのままの夏祭りでした。非日常になってしまった、大きな自然災害の現場で開かれた夏まつりで、2人の落語家の熱演が少なからず空回りに見えたのは、非日常の世界に設けられた夏祭りが、たぶん“仮の日常”を演出するに過ぎなかったからだと思えます。
伊達市伏黒飯館村仮設住宅の落語会は、“大笑い”の落語会になりました。放射能汚染で、全村避難となった飯館村の約100世帯の人たちが身を寄せることになったのが伊達市伏黒仮設住宅です。会場は仮設住宅の集会所、集会所が出来て、仮設住宅の人たちが最初に顔を合わせることになったのが落語会でした。「聞きに来る人があるのだろうか」だった集会所に、約50人が集まりました。長テーブルを重ねた演台を固定するロープを買いに走ったりしている間に時間になり、なぜか「ハイサイオジサン」の鳴りもので始まったはずが、演台には座布団がありませんでした。で、お借りすることになったのが、お客さんのおじさんの2枚分の長さの座布団でした。一番手のあさ吉さんが、借りて折り曲げた座布団に座るだけで、落語会は“大笑い”の始まりになりました。非日常の場所で、日常の2枚折りの座布団で始まった落語会ですから、2人の落語家もまた、その、その乗りをそのままに、熱演することになり、飯館村の落語会は“大笑い”のうちに終わりました。
[バックナンバーを表示する]