箴言などで取り上げられる「貧しい者」は、ただ不条理にそれを強いられるということはありません。「富める者の宝は、その堅き城であり、貧しい者の乏しきは、その滅びである。」(10章15節)、「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。」(11章24節)。惜しむとか、心までが貧しい時、必然的に貧しさを引き寄せてしまいます。ということは、普通にあたり前にあり得ることで、条理そのものです。
ヨブ記では、一点の非の打ちどころのないヨブが、持っているすべてを失い(奪われ)ます。「ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」(1章1節)。にもかかわらず、持っていた財産のすべて、家族を失い(奪われ)ます。「あなたのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいると、荒野の方から大風が吹いてきて、家の四すみを撃ったので、あの若い人たちの上につぶれ落ちて、皆死にました。」(1章18、19節)。という不条理の数々を突きつけられ、“友人”の一人は「見よ、神に戒められる人はさいわいだ。それゆえ全能者の懲らしめを軽んじてはならない。彼は傷つけ、また包み、撃ち、またその手をもって癒される」と、条理と不条理を神にゆだねるべく諭します。しかしヨブは、条理は条理であり、不条理は不条理であると言って譲りません。「今、どうぞわたしを見られよ。わたしはあなたがたの顔に向かって偽らない。どうぞ、思いなおせ、まちがってはならない。さらに思いなおせ、わたしの義は、なおわたしのうちにある。わたしの舌に不義があるか。わたしの口は災をわきまえることができぬであろうか。」(6章28~30節)。ヨブに象徴されるような、全くの義人ではないにせよ、普通に生きて誰かを傷つけたり、誰かから奪ったりした訳でもないのに、とことん貧乏くじを引いてしまうことがあって、その“不条理”が納得できない、ということは往々にしてあります。というか、そういう人たちに限って、不条理に見舞われることがあります。で、“神はいるのか?”となったりします。そんな時にだけ、“神はいるのか?”と問われても、困るのは神でしょうが、そんな問いの徹底がヨブ記だと考えられます。神に対しても、誰に対しても一点の非の打ちどころもないのに、極限の不幸が襲いかかります。不条理そのものです。で、友人の一人が言います。「彼(神)は傷つけ、また包み、撃ち、またその手をもっていやされる」と。もし、自分の身に起こってしまったことを、合理的に受け止めるとすれば、友人ぐらいの程度に条理と不条理を使い分ける方が生きやすい、ということになります。しかしヨブは、条理は条理、不条理は不条理として譲りません。それがたとえ、神が相手であったとしてもです。
「主はまたヨブに答えて言われた、『非難する者が全能者と争おうとするのか、神と論ずる者はこれに答えよ』そこで、ヨブは主に答えて言った、『見よ、わたしはまことに卑しい者です、なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口に当てるのみです。わたしはすでに一度言いました。また言いません、すでに二度言いました。重ねて申しません』」(40章1~5節)。
神の前で傲慢でないことはないのですが、向かい合ってひるむことをしないのがヨブです。「・・・なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口に当てるのみです」と。言いたいことはたっぷりある、しかし口をつぐんでしまうのです。
東北で起こった大地震・大津波の自然災害が、家族や仕事を奪ってしまう不条理は、繰り返されてきたという意味では、いつでも、常に覚悟するよりないのかも知れません。何千人もの“行方不明”という不条理も、人間に与えられている想像力を駆使することで受け止められない訳ではありません。しかし、原子力発電所の事故は、不条理ではありません。条理を軽んじてしまった結果の事故です。その結果、放射能に脅かされることになる子どもたちには、それは不条理です。しかも、向かい合う術のない不条理であることが悲劇です。今、その不条理と悲劇を、無かったかのようにする状況が作られようとしています。不条理をより不条理に、悲劇をより悲劇にしてしまうにも関わらずです。できそうなことは「・・・なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口に当てるのみです」と、ただヨブの言葉をなぞるよりないにも関わらずです。
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