子どもの頃の火の記憶は、広い居間の片隅に切られた囲炉裏で燃えていた火です。高い天井の真っ黒に煤けた梁から吊るされた、黒光りする竹の自在かぎには、大きな鉄鍋が掛けられていました。みそ汁や煮物などに使われる鍋で、その下で燃やされていた火の記憶です。冬の寒い時には、程良い距離で手をかざして温まる火であり、腹をすかせた時の夕食が出来るのを待ちながら囲む火でした。その時の火の記憶には、煙の記憶が重なっていました。囲炉裏で火を燃やしていた居間には煙突というものがなく、茅葺屋根の先端の空気抜きが、そのまま煙突の働きをするようになっていました。囲炉裏で火を燃やした時の煙は、居間全体にゆらゆら漂って、ついにはその空気抜きに達するという具合に、流れていきました。火を使う生活は、煙との生活であり、火の記憶は煙の記憶と重なっていました。火の記憶は、火を囲む記憶でもあり、生活の多くは火を囲む生活として営まれていました。竹を割って削った太い竹串に大きめのイワシやアジを少しひねるようにして差し込み、火の具合を見ながら程良いあたりの灰に差し込んで焼きます。焼け始めた魚の煙、灰の近くの火に落ちた魚の脂が燃える時の煙、囲炉裏の火の記憶は、煙の記憶と重なっていました。煙を可能な限り出さないで上手に火を燃やすことは、効率的に火を使いこなす、という意味で上手に火を燃やすのはそれだけで尊敬されました。煙を出来るだけ出さないで、すみやかに火を燃やしてほめられるのは、子どもたちも自慢でした。
そんな火の記憶が、1950年代のプロパンガスの登場で、田舎でも過去になり、今やはるかに遠いものになりました。
1995年の兵庫県南部大地震の時から、主として屋外で火を使う時、マキストーブを使うようになりました。子どもたちのキャンプで、北海道紋別に行くようになって出会った、薄い鉄板で出来たマキストーブです。地震で壊れた家は、撤去費の“公費負担”が決まり、大急ぎで解体撤去されることになりました。住宅に大量に使われていた木材も、すべてがごちゃまぜの“ガレキ”になって運び出され、西宮の場合は西宮浜に集めて積み上げられ、処理不能ということで野焼きされることになりました。そんなことを聞いて、現場も見たりして、木材がただ燃やされてしまうことが残念でなりませんでした。
そうじゃなくて、たとえ壊れてしまったとしても、家というものの大部分を占め、かつ支えていた木材は、いろいろ、あれこれ役に立つこと、燃やすにしても燃料になり得ることを、北海道から取り寄せたマキストーブで実践することになりました。ほんの少し、ささやかな試みとして、解体撤去現場で譲ってもらった、1トントラック2台分の柱や梁は、以来10年間、教会学校、幼稚園の野外活動のマキストーブの燃料、年末に神戸方面の被災者の集まりのもちつきのマキストーブの燃料として使われてきました。
1995年の大地震の後、民間で仮設住宅を建設することになり、その時に世話になった工務店のショールームに展示されていた、本格的なマキストーブを譲ってもらうことになりました。そのマキストーブは、幼稚園の園庭のドームテントの中で使われたりしましたが、ドームテントが撤去された後は、アートガレーヂの片隅で眠っていました。教会1階を集会室として整備するにあたり、片隅に置くことになり、2~3回試しに火を入れてみましたが、煙るのでそれっきりになっていました。幼稚園の庭にできたパン窯がきっかけで、ナラのマキが入手できることになり、改めて火を入れてみると、ナラのマキは火持ちもよく、よく燃えることが解りました。集会室の本格的なマキストーブが何よりなのは、正面の耐熱ガラスを通して、中で燃えている火の様子が見えることです。
マキストーブの中で、マキがまさに燃え尽きようとする時、ほんの少し火勢を盛り返す時、火はちろちろと燃えているように見えます。マキストーブの火元はマッチです。マッチを擦って、火を一握りの紙に移し、“小木”と呼んだりする燃えやすい針葉樹の細くてよく乾いた木に移し、同じ針葉樹の太い木に移し、落葉樹の固い木、ナラなどに移す頃には、火はめらめらと燃えています。火勢が上がって、マキストーブからはみ出るくらいの火勢の火は、ぼうぼう、ごうごう音をたてています。そんな時のマキストーブの上では、やかんがしゅんしゅん音をたてていて、やかんの口からは湯気が立ち上り白湯がおいしかったりするのです。
というような火の記憶、火をめぐる言葉は、人が生きる生活の言葉で満ち溢れていました。火を使ったり操ったりするのではなく、火は一緒に生きる生活の仲間だったのです。一緒に生きる生活の仲間である火を、見えない火(たとえば原子力)に譲ってしまった時に、既に人間の生活は生きた生活ではなくなっていました。
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