教会、幼稚園前の植栽帯、駅前公園、集会室の窓などに、40株余りの水仙を植えました。今頃、水仙の季節ではないのですが、近くの園芸店の店先に、しばらく前から、並んだままになっていたものを購入しました。2本ずつ(2株ずつ)、小さなビニール製のポットに入って並べられている水仙は、さぞかし窮屈なことだろうと思って、店先を通る度に眺めていました。水仙の季節が終わる頃(たぶん)になってもそのままだったので、並んでいた42株(ポットの数21個)全部を引きとり、植栽帯に16株、駅前公園に18株、集会室の窓に8株植えることになりました。長い間、小さなビニール製のポットに閉じ込められていた球根の白い根っこは、ポットのそこで“とぐろ”を巻いていました。園芸店の店先におかれた時には、まさか根っこがそんな具合になるまで、葉っぱはともかく、花茎を伸ばし更につぼみをつけるまで、まさかそのままとは、当の水仙も思い及ばなかったことでしょうから、ぎりぎり根っこを伸ばすのにも、花を咲かせるのにも水仙の季節に間に合うことになり、ホッとしているはずです。
植物の営み、自然の営みは、時に人間の気紛れによって大きく左右されることになります。誰かの手に渡ることを期待された水仙は、大きな球根には見合わない、小さなビニール製のポットの中で、白い根っこをぐるぐる“とぐろ”を巻くまで、誰かが声をかけてくれるのを待ちました。しかし声はかかりませんでした。
教会前の小さな公園の整備が始まっています。川沿いの道路を、住宅側の道路に一体化する工事です。小さな公園を象徴するしだれ桜の根元は、コンクリートから小さな石積みの囲いに変わることになりました。コンクリートの囲いを砕き、石積みの囲いの工事をするということで、しだれ桜の根元が、太い根っこが露出くらいにえぐられることになってしまいました。しだれ桜は、両側を通過する車の屋根に枝が触れてしまうということで、バッサリ切られてしまうことがあります。そんなことにならないように、手を伸ばして届いてしまうくらいの枝は切ることにしていました。ところが3年前に、全ての枝がバッサリ切られて、傘のような、おかっぱのようなしだれ桜になってしまいました。そんなことがあっても、小さな公園の象徴として、川沿いを歩いても、ケンタッキーを左折して津門川に向って歩いても、季節になれば満開の白っぽい花に出会うことができました。
その、小さな公園の桜は、一体化される道路を車が右折しやすくする為、電柱の位置を移すことになり、電柱にかかる枝を切るよりないと、西宮市の担当者は譲りませんでした。公園などの整備にあたり、にしきたの街からも提案をする“にしきた街づくり協議会”のメンバーも、これには譲らず、工事が一年延び、しだれ桜の枝は切らないで、電柱を移すことで落ち着きました。始まったしだれ桜の根元の囲いをつくり直す工事で、太い根っこが露出するくらい削って、削ったままになっているのが気になっていました。ひと抱えはある、川沿いのしだれ桜のことですから、そこそこ深く広く根をはりめぐらしていることでしょうから、根元をえぐられたくらいで、簡単に弱ってしまうことはないはずです。
そうは言うものの、公園の工事で、そこに一本しかないしだれ桜の根っこを、えぐったままにしないよう、工事関係者に申し入れたところ、翌日には、えぐった分の土の代わりに、“山砂”が運び込まれました。畑や田んぼなどの耕作地でも表土は耕されて肥えていますが、それから下の土では作物はうまく育ちません。山の場合も、木や植物の落とした葉っぱが堆積して表土層を作り、そこでは、木や植物が育ちやすくなっています。公園の桜の根元に運び込まれたのは、山の表土の下層部分の“山砂”です。しだれ桜は、根元の土がいきなり削られてびっくりし、削られたままをガマンしていたら、今度はいきなり山砂で埋められてびっくりしているはずです。
一本のしだれ桜が、何かの都合でそこに植えられ、しだれ桜であるはずなのに、枝を垂らしたその姿が邪魔になるということで、バッサリ切られたりしてきました。しかし、その場所で生き延びてきました。何よりも生き延びさせたのは、深く広く根を伸ばすことになった大地・土と親和する力だったはずです。大地との親和は1年や2年ではなく、5年10年伸ばせるだけの根を伸ばしてやっと身につく力です。
水仙は、やっと根を伸ばせる土が与えられて、大地と親和し、来年の水仙の為に伸ばした根っこの分の球根を育て、多年草の植物としての力を遺憾なく発揮することになるはずです。
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