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2012年03月01週
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 予告していた「滅亡の予感と虚無をいかに生きるのか、聖書に問う」が、3月11日を前に発行の運びとなりました。岩井健作さんの紹介で、新教出版社の小林望さんが出版を引き受けて下さることになり、構成も専門家としての立場で、校正もしっかりとしたものになりました。巻末の「刊行の言葉」は、特別講座の協議と別に提出した刊行の言葉を、小林さんがまとめて下さったものです。たとえば、「・・・その危機にひるまず立ち向かう言葉として実現した」は、講座を計画し実現した感覚では、そんなに評価できないように思っています。
 2011年3月11日の東北の大地震と大津波、中でも東電福島の原子力発電所の事故の後の滅亡と虚無の感覚は、直後も、講座が実現した8月も、1年目を前にした今も変わりません。東電福島の事故で、大気中・環境に放出されてしまった、大量の放射性物質は、それが降り注いだどんな現実も、それから後を生きる力を萎えさせるのに十分な力を持っています。3月11日の後、繰り返し東北の被災地に足を運んだ池澤夏樹は、手記の題を「春を恨んだりはしない」としました。ヴィスワヴァ・シンボルスカが夫を亡くした後で書いたとされる詩、「終わりと始まり」の一節です。「・・・また、やって来たからといって、春を恨んだりはしない。例年のように自分の義務を 果たしているからといって 春を責めたりはしない・・・」(「終わりと始まり」沼野充義訳、未知谷)。池澤夏樹は手記で「春を恨んでもいいだろう。自然を人間の方に力いっぱい引き寄せて、自然の中の人格か神格を認めて、話しかけることができる相手として遇する。それが人間のやり方であり、それによってこそ無情な(情というものが完全に欠落した)自然と対峙できるのだ」とも書いています。東電福島の事故で、大気中・環境に大量に放出された放射能は、人間が自然と対峙する言葉はもちろん、すべてを奪ってしまわないではおかない事故です。そこが住めなくなってしまったという意味で、滅亡と虚無が現実になってしまったのです。
 その滅亡と虚無を、多田富雄との往復書簡「言魂(ことだま)」で書いていたのは、石牟礼道子です。「人類に滅亡がやってくるとして、もっとも悲しまれるのは・・・」「・・・現代の虚無について考察するのは・・・」(「言魂」2008年、藤原書店)。人間はどのような姿をとって滅ぶのかを、「・・・具体的には日常の暮らしの中で、子殺しや親殺しまでが営まれる時代になって、そんな市民社会の極相の現場にわたしたちは立ち会うはめになってしまいました」とも書いていました。
 石牟礼道子は、2011年3月11日の後の4月20日に書いた「花を奉る」を、「春風萠(きざ)すといえども、われら人類の刧塵(ごうじん)いまや累(かさ)なりて、三界いわん方なく昏(くら)し」で始め「ただ滅亡の世せまるを待つのみか、ここにおいて、われらなお地上にひらく、一輪の花の力に念じて合掌す」で閉じています。
 東電福島の事故は、「われら人類の刧塵いまや累なりて・・・」“累なりて”の一つとしてそれは起こってしまいました。それは同時に、「日常の暮らしの中で子殺しや親殺しまでが営まれる時代」の“累なり”で起こったという意味では、起るべくして起こったというのが「花を奉る」です。「花を奉る」で「・・・ただ滅亡の世せまるを待つのみか」は、「言魂」の「人間はどのような姿をとって滅ぶのか」であって、それは更に「水銀に死んだ『苦海浄土・水俣』」にさかのぼります。当時(1962年頃)、脳性小児マヒ症状を呈した患者(胎児性水俣病患者)の家族は、家族ぐるみで“奇病”の苦海を生きることを強いられました。胎児性水俣病の少女、中村千鶴・13歳のことを「炎のような怜悧さに生まれつきながら、水俣病によって、人間の属性を、言葉を発する機能も身動きする機能も、全部溶かし去られ、怜悧さ精となり、
魂のみでさえざえと生き残ったかとさえ思われるほど、この少女のうつくしさ」「このような極相をそなえた事件の全貌を、一身に荷って生まれ出た子どもたちの、みずからは知らない、予言的病像のあどけなさ。おそろしさ。いたたましさ。」と、石牟礼道子は書いています(「苦海浄土 第二部、葦船の章」)。言うところの苦海は、人間の属性の全部が溶かし去られる、滅亡と虚無の世界であること、しかし、そこに浄土を見たのは、そこにもなおそんな人間の存在を引き受けて生きる人たちを見たからです。
 東電福島の事故が、滅亡と虚無、苦海を予測せざるを得ないのは、人間の作ったものが、決して人間を寄せ付けない、人間の力のすべての力を無しにしてしまうことを予測させるからです。そのことが、突きつけられているという意味での、滅亡の予感と虚無をいかに生きるのかを、問う営みの一つが、「滅亡の予感と虚無をいかに生きるのか、聖書に問う」だと思っています。しかし、難しいのです。
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