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2012年03月03週
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 3月13日(火)の「ゆっくりと聖書を読んでみませんか」で、は「その歩みに恥じない時間を積もらせていきたい」について、参加した人たちの言葉で話していただくことになりました。いきなり「・・・その歩みに恥じない時間を」と問われたりすると、少なからずたじろいでしまいます。多くの人にとって、一日はさり気なく始まり、さり気なく終わっているはずです。“恥じない“と気合を入れて始まり、“恥じることはなかった”と肩を張って終わるほど特別ではないはずです。たぶん、少しは自分らしく生きたことを、その人の一日に何であれ発見できることがあれば、充分にそれは「・・・その歩みに恥じない時間」と言い得るように思えます。「ゆっくりと聖書を読んでみませんか」に参加する人たちの多くは、西宮公同幼稚園の子どもたちのお母さんです。そんなお母さんたちだったら、子どもたちとの朝があって、送り出して、帰ってくる子どもたちを迎え、子どもたちの寝顔を見守って一日が終わるとすれば、それこそが「・・・その歩みに恥じない時間を降り積もらせていきたい」一日として、完結しているように思えます。
 幼稚園を卒園する子どもたちの“文集”に書いた文章に、「ずっとずっと 僕はどんな時もお母さんが好きだった」「ずっとずっと 僕はお父さんのようになりたかった」などのことを書きました。子どもたちにとって、お母さんやお父さんに勝るものはありません。料理を作ってくれるお母さんのことを、子どもたちは自慢します。コマ回しで遊んでくれるお父さんの“技”のことを、子どもたちは自慢します。もしお母さんが、少しばかり料理の手を抜いたとしても、子どもたちにとってお母さんの料理が美味しいのは、お母さんと生きることが、それを膨らませるからだと考えられます。子どもたちとお母さんの物語が、どんな料理もおいしくしてしまうのです。同じように、お母さんとの物語が、子どもたちをお母さんを大好きにしてしまうのです。
 お父さんの場合も同様です。子どもたちとお父さんとの物語が、あんまり子どもたちと遊ぶ時間を持てない、大忙しのお父さんであっても、「ずっとずっと 僕はお父さんのようになりたかった」にしてしまうのです。そしてもし、子どもというものが、そんな物語でお母さんやお父さんと向かい合うのであってみれば、お母さんやお父さんは、子どもたちを裏切ってはならないのです。
 3月13日(火)の、「ゆっくりと聖書を読んでみませんか」は、「イエス最後の一週間」(クロッサン・ボーグ他著、教文館)を手がかりに、生きたイエスの事実に少しばかり迫ってみることが課題でした。イエスの最後の一週間は、マルコによる福音書の場合だったら、「大声で『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫び」、更に何かを「声高く叫んで」十字架で息絶えたイエスです。「人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼に死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日目によみがえるであろう」と、自らのことを語っていた(?)イエスです。「ついに殺され」は、十字架に付けられて殺されることとして現実になり、よみがえってことがマルコによる福音書には書かれています。「・・・するとこの若者は言った、『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない』」「イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう」(16章6、7節)。
 「イエス最後の一週間」の著者たちの復活理解を略述すると、以下のようになります。「私たちは、復活物語の歴史性を問う視点が、復活物語を理解する妨げになっていると考えます」「『このようなこと』が実際に起こったかどうかは、問題にすべきことではありません。問題にすべきことは、物語自体のうちに見えてきます」「そして、文学的手法に注意するならば、『ガリラヤへ行け』という最後の指示は、『物語の始まり、福音書の冒頭へ戻れ』という指示とも理解できるでしょう。マルコによる福音書の冒頭に戻れば、そこでは神の王国とイエスの道がガリラヤにおいて教え始められているからです」。
 もし、マルコによる福音書をそのように理解するとすれば、その復活物語が示唆するのは、マルコ福音書の冒頭、「神の王国とイエスの道」を、私が生きて、私の言葉として語ることになります。他の誰でもない、イエスが私たちにそれを求め、自分の生きた形において示しているのであるとすれば、私たちもまた、その物語を自分のものとして生きる、それを復活物語が示唆しているのだという意味で。

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