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2012年04月01週
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 キリスト教会は、聖書に描かれているイエスと弟子(たちなど)との会食に倣って、礼拝でパンを食べ、ぶどう酒を飲むということをしてきました。
 「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた『取れ、これはわたしのからだである』。また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。イエスはまた言われた、『これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない』。彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った」(マルコによる福音書14章22~26節)。この会食は、聖餐式という儀式になって、今日のキリスト教会の礼拝でも行われています。西宮公同教会の聖餐式は、クリスマス礼拝とイースター(復活)礼拝で行われます。聖餐式は、従来のキリスト教会の理解では、洗礼を受けた者、いわゆるキリスト教信徒に限定されていました。
 しかし、西宮公同教会は、教会の歩みの中で「洗礼を受けた者が信徒」ということでは、含み切れないものがあることに気付き、その理解を整理することになりました。そのことの理解・整理が、宗教法人・日本基督教団西宮公同教会 規則・内規です。「第3章、教会総会第19条、教会総会は担任教師及び現住陪餐会員である信徒を以て組織する。(この第3章第19条に、以下の“内規”を教会総会の総意で、を付け加える)」。「内規、西宮公同教会総会は告示された総会日に出席した人すべての総意で運営される。」「理由、西宮公同教会は、1970年代に、担任教師に対する“解任問題”など、教会として困難な歩みを経験して今に至っている。そうして経験したことから得た最大の教訓は、すべての事柄に置いて、少数の意見を排除せず、審理を尽くすことの必要であった。それらの経験を生かす道として、誰であれそこに存在する人の意見に等しく耳を傾けるという意味で、上記の内規を教会の総意で了解することとした」。
 この内規から、西宮公同教会の聖餐式は洗礼を受けた者だけではなく、そこに存在する人すべてを招くことになりました。その場合の、聖餐式を行う“式文”については、明確にしてきませんでした。昨年になって、そのことが指摘され、12月の幹事会を経て、クリスマス礼拝では、以下のような招きの言葉で聖餐式を行うことになりました。

・聖餐式は「神われらと共にいます」と聖書が示す、 生きる喜びを共有する体験として、一つはパンを 食べ、一つはぶどう酒を飲む営みです。
・生きる喜びを共有する体験の一つとしてパンを食 べます。
・生きる喜びを共有する体験の一つとしてぶどう酒 を飲みます。

 どんな言葉も、一旦表現されると、絶対化されてしまいがちですが、西宮公同教会の聖餐への招きの言葉は、少しずつその時の言葉として言い換えられ得るように思っています。一般に教会の聖餐式は、宗教儀式の形式を守ることが聖餐式、それがそのままキリスト教信仰でもあると理解されてきましたから、招きの言葉が変更されるということもありませんでした。
 しかし、西宮公同教会の教会総会を組織する人たちのことがそうであったように、聖餐式もまたそこに存在するすべての人によって共有されることを願い、そのように実施されてきました。その、聖餐式を実施する根拠として、繰り返し学んできたのが、マルコによる福音書16章1~8節に書かれている、イエスの“復活”でした。「するとこの若者は言った、『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。今から弟子たちとペテロの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と』」。「ゆっくりと聖書を読んでみませんか」でテキストになった「イエス最後の一週間」(クロッサン、ボーグ、教文館)で、著者たちは、このマルコによる福音書の「『ガリラヤへ行け』という最後の指示は、『物語の始まり、福音書の冒頭へ戻れ』という指示とも理解できるでしょう」と書いています。マルコによる福音書をそのように理解すれば、繰り返される西宮公同教会の聖餐式は、福音書の冒頭「神の王国とイエスの道」を、私が生き、私の言葉として語ることと同義になります。他の誰でもない、イエスが私たちにそれを求め、自分の生き方においてそれを示しているのであるとすれば、西宮公同教会の聖餐式で提案され、試行が始まっている聖餐式の招きの言葉は、その一つの具体化であるように思えます。
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