手元の「ギリシア・ローマ神話」(グスターフ・シュヴァープ、角信雄訳、白水社)は、「天と地が創られた。海はその岸に大地が打ち寄せ…」と天地創造が語られ、そのすぐあと神族の子孫プロメテウスの作った人間の物語が始まります。その人間に、他のすべての生き物を隔てる火を盗んで与えたのがプロメテウスです。「ギリシア・ローマ神話」は創造ではじまり、神族そして人間のすべての営みが、滅ぼし、おぼれる、欺瞞など生々しい営みとして描かれます。という物語、神話は尽きることなく読み手(聞き手)をひきつけずにはおきません。「ギリシア・ローマ神話」の物語・神話は、人間という営みを包み隠すことをしないし、それを神々と接合させることで、更に人間という生きものをえぐり出さずにはおきません。
どこかの国の世代交代に際し、その“世襲”という生々しさを、ロケットをとばすということで物語・神話にしようとして失敗してしまいました。(そうなのだと思います)。“世襲”をロケットをとばすことで物語・神話できると思い込んだりするこっけいさに、まともに付き合ってしまった国家も、負けない醜態をさらすことになりました。ロケット発射のことが伝えられて、日本は他のどの国より反応が大きくて、迎え打つロケットの配備までしてしまいました。生々しいのです。そして「北朝鮮は13日午前7時39分ごろ、北西部の平安北道・東倉里(ピョンアンブクト・トンチャンク)の『西海衛星発射場』から、長距離弾道ミサイルと見られる機体を発射した。機体は1~2分の間に空中で爆発し、海上に落ちた。」(4月13日、朝日新聞)。生々しい世代交代の“世襲”を穴埋めする物語作りは失敗に終わり、生々しいしょうもない物語だけが残りました。“以上終わり!”なのです。しかし、この一連のことに、生々しく応答した日本は、少なからず深刻です。新聞報道の「ミサイル発射をめぐる日本政府の動き」によれば、韓国のニュース専門放送局が発射を速報したのが7時51分、米国防省は発射を発表、首相官邸が「発射を確認していない」と発表したのが8時9分で、田中防衛相が『7時40分ごろ、飛翔(ひしょう)体が発射されたとの情報を得ている』と発表したのが8時23分となっています。ロケットが発射され、直後爆発してから約45分経っていました。「・・だが、ミサイル発射直後に情報が錯綜し、政府の対応は混乱した。防衛省は中央指揮所で午前7時40分に米国の早期警戒衛生(SEW)による発射情報を確認したが、首相官邸は8時9分に『北朝鮮が発射したとの一部報道があるが、我が国としては確認していない』と発表。衛星回線を通じて発射情報を伝える『Jアラート』は作動させなかった」。ということだったとすれば、一つ明らかになったのは、ロケットの発射を迎えうつはずのすべては間に合わなかったという生々しい事実です。もう一つは、そんな生々しい事実を「藤村氏(官房長官)は『ほぼ我々の対処方針通りの対応だった』」と、貧しい物語にすりかえていることです。もっと言えば、語るに値しないことをしてしまっていることを、何一つ反省しない人たちなのです。だって、ロケットは発射されたものの1~2分後には爆発してしまっていたのに、日本政府が発射を確認したのはその約45分後だったのだとすれば、そして、もしロケットが飛び続けていたとすれば、何一つ対処する前にロケットは到着していたことになります。これはすべてが間に合わなかったという生々しい事実なのです。
というようなことをしている日本では、別の生々しいことも起こり続けています。「ヤーコン茶1.7万ベクレル検出」「仙台湾スズキ出荷停止」(4月13日、朝日新聞)などです。昨年3月11日の後、大気中環境に放出されてしまった放射能が、じわじわと広い範囲に影響をおよぼし続けているのです。そこからは、どんな物語も生まれようのない、生々しい事実としてです。この生々しい事実を生み出すことになったのが、たとえば温室効果ガス排出量削減のことで「原発の発電比率50%を想定した従来予測(43%削減)」という貧しい物語です。貧しいのは、見かけ上は、温室効果ガス排出量削減になるとしても、原発によって処理不能の使用済み燃料は増え続けるという生々しい事実を隠す物語だったりするからです。以下隠さないで事実を“見直し”“試算”してみた結果だそうです。「2030年に全電力に占める原発比率を20%と設定し、発生する放射性廃棄物の量を調べた。すべての使用済み核燃料からプルトニウムを取り出し再処理すると、高レベル放射性廃棄物など地下に埋める廃棄物は5万立方メートル発生。一方再処理せずに、すべて直接処分すると18万立方メートルになるという」(4月13日、朝日新聞)。生々しいのは、電気の需要は自明のこととし、その上で温室効果ガス排出量削減目標をかかげて原発を稼働し続けると、2030年までにたまる放射性廃棄物が18万立方メートルに達する(らしい)ことです。その生々しい事実を前に再処理という貧しい物語が、あきもせずに語り続けられています。
物語・神話というものが、本来貧しいのではありません。生々しい人間と生きものの営みも、「ギリシア・ローマ神話」のように、尽きることのない関心へと、読み手(聞き手)を引き付けずにはおきませんでした。物語・神話が生々しく生きる人間を、それ以上に深くえぐって見せたからです。
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