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小さな手大きな手

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2012年05月01週
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 4月26日に、子どもたちと出かけた、篠山市後川では、田んぼの土手につくしが伸び、たんぽぽが咲き、スミレも見つかったりしました。教会、幼稚園の前を流れる津門川の“名物”の一つはたんぽぽです。春には石垣のすき間のあちこちに花を咲かせ、春から秋にかけ長い期間、たった一輪で咲いているのが見つかる場合もあります。そのたんぽぽはすべて西洋たんぽぽです。花を包む総包の外片が開いて湾曲していることで、関西たんぽぽと見分けます。26日に、後川の田んぼの土手で咲いていたのは、総包の内片も外片も花をしっかり包むように直立している関西たんぽぽでした(西宮では滅多に見つかりません)。津門川の石垣の西洋たんぽぽは、ふっくら半円形に見えるくらい花びらの数も多く、濃い黄色ですが、関西たんぽぽは、花びらの数も少なく平ったくて花びらの先端は黄色の色も薄く見えます。
 26日の後川で、旧後川小学校の周辺を歩いていて、思いがけなくたくさん見つかったのがスミレです。羽手川の支流西山川沿いの細い道路の山際にも点在していて、更にその先の広場の枯れた芝の間にもスミレの花があっちこっちで見つかりました。旧後川小学校前の県道の歩道は、道路面より約10センチ高くなっていて仕切りはコンクリートのブロックです。仕切りにへばり付くように溜まった土には、溜まった土の分だけスミレが集まって咲いていました。
 子どもの頃の田舎の生活で、スミレの花で遊んだ思い出があります。花が咲いているスミレの細い茎を根元近くからちぎって、花が総包より後の方に少し伸びカギ状になっている部分を引っかけ合い、引きちぎった方が勝つという遊びです。松の2枚葉を開き、引っかけ合って引っ張って、ちぎった方が勝つという遊びは、青葉でも、枯れ葉でも遊びましたが、スミレは春の花の咲くときだけの遊びでした。スミレの花もそんなにたくさん見つかった訳ではありません。
 最近入手することになったスミレの小さな図鑑「スミレ・ハンドブック」によれば、後川で見つけたスミレはツボスミレの一種のようでした。
スミレは、3月末に教会学校の子どもたちと歩いた、六甲山の縦走路でも咲いていました。三宮から新神戸、布引貯水池、市ヶ原へと歩き、そこからが六甲縦走路に合流することとなります。六甲縦走路が、天狗道にかかる日当たりのいい丸太の階段の少しくぼんだあたりに、縦走路を歩く人たちに踏まれないように、隠れるようにスミレは咲いていました。階段を登る時に下を向くときの視線の先に、スミレが見つかってほっとして、もう一歩階段を登る元気が出るという具合に、スミレは咲いているのです。
 スミレは、4月30日の“カレーパーティー”で出かけた仁川上流の河原でも咲いていました。200人近い“本隊”がその河原に着いたとき、カレーを煮込んだりする先発隊の人たちのカレーの準備はできていて、その先発隊の人たちが見つけたスミレが、3本の折れ枝を組んで保護されていました。カレーパーティーをするその河原では、4月のその頃には、ヨシが芽を出し始めています。“踏まないように!”と、どんなに叫んでも、誰かが踏んで新芽を折ってしまうため、2〜3年前から先発隊の人たちが枯れ枝や川原の石で囲んだりして保護してくれています。スミレも3本の枯れ枝で保護されていました。そこでスミレを見つけ、たった一本、一輪のスミレを保護することに気を遣う人もそこに集ったりするのがカレーパーティーです。
 5月の連休に娘と歩くのが恒例になっている山歩きで、5年程前に、西宮の山、ごろごろ岳を歩きました。ごろごろ岳に登り、鷲林寺へ下りる道でも、スミレが咲いていました。風化した岩が、更に細かく砕け、植物が育ちにくいやせた土地に、スミレはしかし根を下ろして咲いていました。小さな葉っぱの小さな花でしたが、スミレが見つかって数えているうちに、ごろごろ岳からの道は、気がついてみたら鷲林寺間近になっていました。
自然の小さな営みと出会う、それが数少ない機会であったとしても、人間の生活は、ずいぶん違うものになっているはずです。出会うことが無かったとしたら、人間の生活はずいぶん貧しいものになってしまうかもしれない、という意味で。汗を流しながら、山道の階段を登っているときの視線の先に、スミレが咲いているのを見つけ、それが記憶の一つとなる時、過去から現在、そして明日へと繋がる、人間として生きる意味がほんの少し増え、その繰り返しと蓄積が生きる力になっているはずです。さり気ない自然との出会い、心の風景に支えられて、人間は人間であることが出来るという意味で自然はかけがえがないのです。
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