東京電力福島第一原子力発電所の事故に関する件。
(主文)
東京電力福島第一原子力発電所(以下、東電福島)の事故によって、生活、生存を脅かされる人たちと連帯し、国、文部科学省、厚生労働省、東京電力に対し、事故の責任を明らかにし、事故と放射能の全ての情報を開示することを求めます。
①東電福島の事故で、大気中、環境に放出された放射能は、中でも生育期の子どもたちの生命、生存を脅かすことになりました。子どもたちを放射能から守り、遠ざける働きを作り出すこと、作り出す働きに幅広く連帯をします。
②東電福島の事故の現場で働く人たちは、高線量の放射線被爆を余儀なくされています。放射線被爆の”2重基準”が、働く人たちの生命、生存を脅かしていること、原子力発電所の存在とその矛盾を働く人たちとの連帯で明らかにします。
③東電福島の事故は、施設がそこにあった地域社会を解体し、そこで培われた人間と自然の全ての関係、営みを壊さずにはおきませんでした。避難を余儀なくされた人たちが、生きる営みを取り戻す働きに幅広く連帯します。
④人間は世界を、自分たちと自分たちが作ったものだけの世界に矮小化してしまいました。原子力という不完全な技術を生活の中に取り込んだ結果、他の全ての生き物と生きる生活世界を荒廃させてしまったのが東電福島の事故です。自分と自分たちだけのものではない世界を取り戻す、それが東電福島を経て生きる人間の責任です。
(提案理由)
東電福島の事故で、大気中、環境に大量に放出された放射能は子どもたちの被曝が続いています。低線量の被爆は「…100~150ミリシーベルトと未満の放射線は(全身被曝積算)では、発がんの確率が増大するかどうか、はっきりした証拠はありません」「低い線量では確定的影響はありません」などのことが、政府、文部科学省を中心に言われ続けてきました。文部科学省は、小・中・高校生に配布する「放射線副読本」で、国際放射線防御委員会(以下、ICRP)の示す基準を元に、「―度に100ミリシーベルト以下の放射線を人間が受けた場合、放射線だけを原因としてがんなどの病気になったという明確な証拠はない」と教えています。なによりも踏みにじられているのは、巾広い情報の共有と選ぶ権利です。文部科学省などが基準としているのは、すべてICRP勧告(2007年勧告)ですが、別に欧州放射線リスク委員会(以下、ECRR)は、自然界とは別の原発、原発事故などによって放出される電離放射線人体に与える影響から、放射線のリスクを検討しています。低線量の放射線であっても、人体への影響は明らかなのです。放射線についての科学的評価と情報を共有し、選ぶのは子どもたちであり家族であるべきです。
原子力発電所はそれが稼働する限り、放射線を全て閉じ込めることはできないし、そこで働く人たちの被曝を全く防ぐことも出来ません。それが前提で、ICRPによって示されているのが、放射線従事者の一般より高い被曝の基準です。ICRP2007年勧告で、一般公衆の年間被曝線量限度は1ミリシーベルト、放射線従事者は20ミリシーベルトです。東電福島の事故のような緊急時では、一般公衆1~20ミリシーベルト、放射性従事者は250ミリシーベルト以下となっています。この一般公衆と放射線従事者の間に設けられている”2重基準”こそが、原子力発電所の科学技術としての不完全さを示しています。放射能を完全に閉じ込めることを条件に作られているはずの原子力発電所において、それができていないのです。結果、原子力発電所の維持管理を、その現場で担う人たちは、放射線従事者として特別に作られた基準の被曝にさらされ続けることになります。
東電福島の事故は、およそ10万人の人たちを、住んでいた地域からの避難を余儀なくさせ、そこに戻ることを難しくしてしまいました。もし、事故が都心で起ったとき、避難して戻ることができない人たちは、数十倍数百倍になったはずです。原子力という不完全技術は、どこかで不完全さを露呈することが想定されていて、東電福島は福島県相馬郡にその施設を置くことになりました。地域が軽視された結果の立地です。東電福島の事故の後、軽視分断された地域を、巾広い地域の連帯で作りだす強い意志と働きかけが求められています。
東電福島の事故は、不完全な科学技術の結果の事故であるとすれば、それを追い求めてきた現代社会が厳しく問われなくてはならないはずです。問われなくてはならないのは、私たち人間が世界を、自分たちと自分たちが作ったものだけの世界に矮小化してきたことです。
旧約聖書の、冒頭の天地創造の物語は、人間が世界を人間だけのものにする矮小化を拒みます。創造物語における古代人の自然観は、自然にそこにあることの豊かさに敬意を払い、それを優れた文学性を駆使して描き、読むに値する物語として伝えてきました。新約聖書が希求する神の国がイエスの言葉でも語られています。「ヨハネがとらえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を述べ伝えて言われた。『時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。』」(マルコによる福音書1章14,15節)。イエスは別に「神の国はいつ来るのか」とパリサイ人に尋ねられ、「神の国は見られる形で来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は実にあなた方のただ中にあるのだ」と答えています。「神の国はあなた方の中にある」のです。(「新約聖書訳と註、ルカ福音書」田川建三)。
創造物語が描く天地、新約聖書がイエスの言葉として示す神の国は、東電福島の事故が招いた、不完全な科学技術に人間の営みを委ねる矮小化とは、相容れないのです。(以上:5月20,21日に開催される兵庫教区総会に提出予定の建議)
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