16日(水)、教会、幼稚園の前を流れる津門川、そして篠山市後川で摘んだよもぎで、よもぎ団子を作りました。摘みたてのよもぎを、沸騰した鍋に入れ、小さじ一杯の重曹でアク抜きをし、水洗いをするという、作業で用意したよもぎが材料になります。鮮やかな緑のだんごは、ちょうどこの時期の鮮やかな緑そのものの爽やかさで子どもたちの前に並びました。5月の中旬の、西宮の津門川のよもぎは、長いもので1メートルを超えるくらい伸びていますが、先端部分をほんの少し使うのだったら、食べられなくはありません。もうしばらくして、よもぎに枝が出始める頃になると、先端部分には薄緑色のアブラ虫がびっしりひっついて、それを餌にするてんとう虫の幼虫が、川沿いを歩く度に成虫に変わっていく様子を子どもたちは見つけて喜びます。たんぽぽが咲き終わった後、よもぎ、ぎしぎし、せいたかあわだちそうが、背丈を競っていずれおとらず“主人公”を争うのが津門川の石垣です。
子どもの頃の田舎の生活で、母たちはよく餅をついていました。そんな餅つきで、必ず彩りを添えていたのが、文字通りよもぎの緑でした。春は、摘みたてのよもぎ餅、冬は乾燥したよもぎを水に戻したよもぎ餅でした。春の摘みたてのよもぎ餅の緑は鮮やかでしたが、冬の乾燥したよもぎ餅は緑というよりは黒っぽく見えました。春に摘んで熱処理し、ワラで編んで軒先で乾燥させるよもぎは“保存”はききましたが、香りも色ももう一つのよもぎ餅でした。今は、春に摘んで熱処理し、固く絞って冷凍すれば1年中鮮やかな緑のよもぎを味わうことが可能となりました。
国語辞典(岩波)でよもぎは「蓬、艾」となっていました。「牧野新日本植物図鑑」のよもぎの項を見ると、植生などの解説があって、最後に「[日本名]ヨモギの語源不明。蓬はヨモギではない。[漢名]艾」ときっぱり書かれていました。「国語辞典」ではよもぎを表す漢字はいくつかあって、「艾」は“がい”“よもぎ”“もぐさ”となっています。よもぎは、よもぎだんごになったり、よもぎ餅になったりするのに負けないくらい、生活の中では「艾」“ぐさ”として重宝されてきたのです。もぐさは、成長したよもぎの葉っぱの裏面の毛から取られるのですが、取ってみたことはありません。よもぎは、子どもの頃、艾(もぐさ)よりはよもぎ餅としてうんと身近でした。子どもの頃のよもぎの思い出は、外遊びの時のすり傷や切り傷で、よもぎが欠かせなかったことです。摘んだよもぎの葉っぱは両手の平で汁が出るくらいもみ、すり傷や切り傷に貼り付ける傷薬になりました。“傷薬になる”と教えられてきたので、子どもたちは当たり前に傷をして、当たり前に自前でよもぎの葉っぱで“手当て”し、当たり前に遊びは続いていました。子どもたちは雑草の中で育って、雑草のように遊んでいたのでした。
いつ摘みし草かと子等に問われたり
蓬だんごを作りて待てば
「これは、第28回朝日歌壇賞作品である。作者はつくば市に住む野田珠子さん」と、雑誌「環」(2012 Spring)で紹介されていました。「野田さんは受賞の言葉で『娘らの間に隔てて放射能汚染の現実を思い知らされ、それでも捨てられず独り食べた日々は苦く重いものであった』」とも。(「要請される新しい時」中嶋鬼谷、俳人)。
田舎の生活で、よもぎ餅をついたりするとき、母親たちは「草もち」と呼んでいました。よもぎであることに間違いはなかったのですが、その緑はどこでも野辺で見つかる草、雑草でした。その雑草のはっぱをちぎってもみ、傷口に張り付けると薬になり、葉裏の毛を集めて“つぼ”に置いて火をつけると、つぼからの働きかけと、煙の両方で病が癒されることを、古代からずっと人間は体験してきました。よもぎは、どこでも野辺で見つかる草、雑草でした。でもその草、雑草は“艾”(もぐさ、よもぎ)という特別の名前がつけられました。
その草、雑草がだんごになると、一緒に春を迎えたその家族にとって、かけがえのない思い出にもなりました。お母さんは、よもぎを摘んで、よもぎだんごにして、娘たちの帰りを待ちました。そうして待った2011年3月11日から後の春、お母さんは放射能の現実を突きつけられることになります。「いつ摘みし草かと子等に問われたり…」と。
しかし、この草、雑草のことで少なからず述べてきたように、草、雑草を巡る一つ一つの営み全てを汚染することはできません。「いつ摘みし草かと子等に問われたり蓬だんごを作りて待てば」と歌うことは、人間の営みとして可能なのです。数十年、時には数万年の長きにわたってその汚染が続くとしても、草、雑草をめぐって繰り返された一つ一つの営みの一つ一つ、その記憶の全てが汚染されてはしまわないということは、あり得るのです。しかし同時にそこでは、人間として生きる強い意志も問われます。
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