2012年6月11日、福島の1324人が、福島地方検察庁に「福島原発事故の責任を問う」告発を行いました。武藤類子告発団団長は、“刑事”告訴することについての少なからず躊躇について書いています。「告訴へと踏み出すことはとても勇気のいることでした。人を罪に問うことは、私たち自身の生き方を問うことでもありました」「誰を告訴するのか、人の刑事罪を問うことですから、厳しい議論を重ねてきました」(「原発事故を引き起こした人たちへ/なぜ告訴告発をしなければならなかったのか」武藤類子、「世界」2012年8月)。そして、告訴告発する理由について、以下のように述べています。「今回、告訴だけではなく、刑事告発を同時に行ったのは、このようにして、もはや憤りも悲しみも口に出して訴えることができなくなった人たちの被害についても、その責任を問わなければいけないと考えたからです。何とも言いようのない不条理を感じています。被害者が被曝しながら除染作業をしなければならない不条理、家が、学校、職場がそこにあるのに戻れないという不条理・・・」(前掲、「世界」)。
ここで言われている“不条理”、言葉を失うという経験を度々してきました。果樹、桃などの栽培を仕事にするKさんを福島市紺野に昨年夏に訪ねた時、Kさんが口にしていたのは、それまで直接受注販売をしていたお客さんが激減したことでした。いい桃が、いい人によって栽培されていることが、信頼されて送り届けていた桃の受注が激減してしまったことを報告するKさんは、注文をしなくなった人たちのことを嘆いている訳ではありません。寒い冬の季節を耐え、花を咲かせ、実をつけ、摘果し、一つ一つと対話して見守った桃、更にそれが信頼されて引き取られるという、蓄積してきたすべての営みが途労に終わってしまったことの報告に、どんな言葉も持ち合わせませんでした。それがもし、思いもかけない気候の変動で、収穫の直前に落下したのであれば、それまで1年が取り返しがつかないものになったとしても、全く言葉を失うということにはなりません。完熟を間近にした桃の一つ一つであるにもかかわらず、それを喜んで味わってもらうことができなくなってしまう放射能の毒による汚染は、喜ぶということを奪ってしまいます。言葉を奪ってしまうのです。
2012年8月10日に招いた、武藤類子福島原発告訴団団長の報告も、それが3月11日より前の出来事にさかのぼるその一つ一つの営みがそこで終わってしまう時に、同じように言葉を失うよりありませんでした。武藤さんたちが始めた雑木林の生活で、燃料の多くはマキでまかなわれていました。どこかで誰かが伐採しているのを見かけた時、それを譲り受けることが、生活の中のあたりまえの出来事の一つでした。譲り受けて燃料になるはずだった木が、燃やしてはならないものになった時、そのことをめぐる言葉が、そこで途絶えるよりありませんでした。放射能による汚染は、その時まあった生命の歩みの、息の根を止めてしまうのです。それは同時に、言葉を奪われる体験でもありました。
昨年夏、福島から招いた子どもたちが、幼稚園の庭で、最初に口にした言葉が「ここは、あそんで、いい?!」でした。子どもたちにとって危険はいっぱいあります。街中で、何よりの危険は道路に飛び出してしまった時の車です。その事は、街の子どもたちは、耳にタコができるくらい聞かされます。西宮の幼稚園の庭が安全かどうか、西宮の子どもたちが心配することはありません。福島の子どもたちは、子どもたちが出会い、遊ぶすべてのものが、あたりまえではなくなっています。中でも、子どもたちの遊びの世界である屋外のすべてが、降り注いだ放射能で汚染されてしまいました。「ここは、あそんで、いい」あたりまえに遊べる場所ではなくなってしまったのです。それは、今日そして明日への言葉の喪失、子どもたちにとっては、今日そして明日への言葉の断念を意味します。
「なぜ告訴告発をしなければならなかったのか」。
人間の生きる営み、中でも自然の中で生きる営みで約束されてきたのは、決して途絶えることのない言葉の世界でした。季節がめぐる時、4つの季節の生命の営みのすべてが、人間の言葉になってきました。たとえば、森が放射能で汚染されてしまった時、放射能によって断ち切られた森と人間は、た易く言葉を交わすという訳には行かなくなりました。
「私の告訴告発」があり得るとするなら、以上の意味で、言葉を奪われたことへの告訴告発であると理解しています。
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