日本キリスト教団西宮公同教会・西宮公同幼稚園
教会について
礼拝・諸集会のご案内
小さな手・大きな手
公同通信
教会学校について
公同幼稚園について
どろんこと太陽
関西神学塾:スケジュール
関西神学塾:講師紹介
楽しい学習
賃貸住宅事業部とは
テナントについて
活動内容
アートガレーヂについて
催し物のご案内
リンク
アクセスマップ
お問い合せ
width=1
top>小さな手大きな手
width=639
小さな手大きな手

height=1
2012年09月02週
height=1
1992年(だったと思う)の夏にパレスチナへの旅(団長・桑原重夫)をしました。その3日目に、ベツレヘムからヘブロンを訪れることになりました。ヘブロンはマクペラのアブラハム、サラ、イサクなどの墓地のある町でしたが、インティファーダ(パレスチナ人たちの蜂起)で、ほとんどの店のシャッターが下りて閑散としていました。墓地の建物に隣接してイスラエル軍の監視塔があり、数人の兵士が自動小銃を手に見下ろしたりしていました。墓地の建物の中には大きなかまぼこ型の棺が、アブラハム、イサク、サラの名前のプレート付きで並べられていました。そのアブラハムの一族の墓地となるマクペラのことが創世記に書かれています。「サラの一生は百二十年であった。これがサラの生きながらえた年である。サラはカナンの地のキリアテ、アルバすなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは中に入ってサラのために悲しみ泣いた。アブラハムは死人のそばから立って、ヘテの人々に言った。『わたしはあなたがたのうちの旅の者で寄留者ですが、わたしの死人を葬るため、ああなたがたのうちにわたしの所有として一つの墓地をください』」(23章1~4節)、「アブラハムは立ち上がり、その地の民ヘテの人々に例をして彼らに言った、『もしわたしの死人を葬るのに同意されるなら、わたしの願いを入れてわたしのためにゾハルの子エフロン  に頼み、彼が持っている畑の端のマクペラのほら穴をじゅうぶんな代価でわたしに与え、あなたがたのうちに墓地を持たせてください』」(7,8節)。これに対してエフロンは「わたしはあの畑をあなたにさしあげます」と無償で提供することを申し出ます。しかしアブラハムは、無償の提供を断ります。「…わたしはその畑の代価を払います。お受け取りください。わたしの死人をそこに葬ります」(13節)。「そこでアブラハムはエフロンの言葉にしたがい、エフロンがヘテの人々の聞いているところで、言った銀、すなわち商人の通用銀四百シケルを量ってエフロンに与えた」(16節)。「その後アブラハムはその妻サラをカナンの地にあるマムレ、すなわちヘブロンの前のマクペラの畑にほら穴に葬った」(19節)。代金を払い、墓地の所有にこだわるのは「旅の者で寄留者」であることを強く意識していたからだと考えられます。墓地を取得して、そこにサラを葬ることは、死んだ「サラのために悲しみ泣いた」アブラハムのそのことに対する“しるし”でした。このアブラハムの物語は、古代の人たちが死者のために泣いて悲しむこと、死者を自らの責任で葬ることにおいて決してゆるがせにはしない態度として書き残しているように読めます。一人の人間として、死そして死というできごとと徹頭徹尾対等に向かいあっているのです。
ひるがえって話題になっている「99パーセントの精度でわかる出生前診断」の生命との向かい合い方には徹頭徹尾軽いと言わざるをえません。たとえば「99パーセントの精度でわかる出生前診断を行う医療機関が8月31日に会合を開き、妊婦への30分以上のカウンセリングなど検査の条件を確認した」などです(9月1日朝日新聞)。医療技術などの進歩で、出生前診断をやってみると99パーセントの精度で「ダウン症などの染色体異常のほか脳や心臓の異常」などがわかるようになってしまいました。で、わかってしまった場合の結果を伝えるにあたって、当の妊婦に対するカウンセリングが必要になるということなのです。例えば、カウンセリングで「ダウン症の子の特徴や育て方などを説明する」ことで、「中絶を選ばない人も」と話す北里大「高田文男教授は『簡単な検査で安易に命の選別をしてもいいということではない』と」話したりもしています(同前、朝日新聞)。しかし医療の技術は簡単な検査で99パーセントの精度でダウン症であるかの有無をわかるようにしてしまいました。わかったうえでの判断は30分以上のカウンセリングで妊婦に委ねられます。高田文男教授は「安易に命の選別をしてもいいということではないと話す」のですが、判断を委ねられた妊婦(と家族は)、たぶんとっても困ってしまいます。生命の問題が価値の問題となってさらに、その生存を引き受けるか否かの判断を迫られることになるからです。その判断はどうであれ難しいのにカウンセリングに応じてしまうとすれば多くをそれに依存してしまうことになります。生と死という徹頭徹尾難しいできごと、悩んで悲しんでしか受け止めようのない問題が、そもそも判断することなどできない問題が、医療技術の“進歩”の側からの働きかけで“判断”という土俵にのぼらされてしまうことになるのです。
このことで何より問われなくてはならないのは出生前診断という“米国生まれの検査法”で謳われる「99パーセントの精度」そのことだと考えられます。新聞が「99パーセントの精度」と書く時(9月1日、9月6日いずれも朝日新聞)、それを検査する医療技術としての有効性を高く評価をします。しかし出生前診断が妊婦への30分以上のカウンセリングを経て実施され、更にその診断結果をもとに「中絶」が選ばれたとしても、精度は99パーセントだったとしても100パーセントではありません。99パーセントの精度を理由に、1パーセントの様々な可能性を持った生命が抹殺されることはあり得るのです。99パーセントの精度は、技術、科学として、代替可能であることが条件で評価されます。決して代替するものがありえない生命の営みの場合、1パーセントの生命を抹殺する可能性のある99パーセントの精度は、それで採用条件を満たしているとは言い難いのです。「アブラハムは中にはいってサラのために悲しみ泣いた」の“悲しみに泣いた”は、誰も代わることのできない「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(創世記2章23節)を失った悲しみに泣くのです。代りはあり得ないのです。
height=1
[バックナンバーを表示する]
height=1


?????width=80

Copyright (C) 2005 koudoukyoukai All Rights Reserved.