子どもの頃の田舎の生活の米作りのことを思い出しています。そのほとんどは、生活の中で見ていた体験です。米作りの一年は、田んぼを耕すことから始まります。標高200メートル前後の山間の農家の平均耕作面積は4反前後でした。それで生活は成り立ちませんから、ほとんどの農家の男の働き手は、雪の降る冬の間の3~4ヵ月は関東方面の土木作業の現場へ、“出稼ぎ”に出ていました。3月下旬、雪が消える頃に田起こしが始まります。耕運機などの機械のない時代でしたからすべて手作業です。とは言っても、4反分の田んぼを起こすのは、1農家では手が余りますから、“え”と称する共同作業でした。労働力を相互に提供し合うのです。提供できない場合は、“ひょう”と言って、金銭で支払うことになります。造成されている田んぼで、使うのは“平鍬”と呼ばれる薄くて平たい鍬でした(厚くて、短くて、がっしりしている鍬は“開墾鍬”と呼ばれ、文字通り、荒地を開墾する道具でした)。鍬で耕す前のもう一つの作業は、前の年の稲株を一つ一つ長い棒の先に着いた、円を4等分した型の刃物をたたきつけるようにして切断する“株割り“です。田んぼ全体を耕し、木製のトンボで均し、苗を植える時の間隔に六角形に棒を組んだ道具(名前は思い出せない!)をころころ転がして、苗を植える位置を印して最後の仕上げは畔塗りで準備は完了です。田植えも、農家毎の共同作業“え”でした。昼食は、その日の農家の提供で、繁かに集まってする昼食の時間、そして、ちょっと特別の昼食は、子供たちにとってワクワクした集まりでした。
田起こしと並行して、それぞれの農家では稲の苗を育てる、苗代(なわしろ)の準備が進んでいました。種籾を少し温度が低い風呂の湯に一晩浸して、発芽しやすい状態にし、苗代の露出し幅広の畝に蒔いて、畝ごと油紙で覆うのです。低温の山間で、発芽と苗を育ちやすくするための工夫です。ビニールシートなどというものが普及していない当時、破れ易くても油紙でした。実際、雹が降ったりすると、濡れた油紙は簡単にずたずたになりました。しかし、発芽して、油紙を押し上げて成長する苗の様子は、見えなくても、生命の力を感じさせずにはおきませんでした。
その頃の田舎の農家が使う道具は、手作りだったり、修理したりして使われていました。使い捨てということはあり得なかったのです。鉄製の鍬も、使っていると先端の刃先がすり減って、切れ味が悪くなります。すり減って切れ味が悪くなった鍬は、冬の間の鍛冶屋の仕事で、刃先をつけ直すのです。田舎の村に鍛冶屋があって、炉で真っ赤になった鍬に、同じく真っ赤な鉄片をくっつけて叩くと、見る見るうちに角ばった切れ味の良さそうな鍬に戻るのです。鍛冶屋のおじさんは、そんな作業工程を、子どもたちに“公開”してくれました。(今の鍬は鍛冶屋さんもいなくて、ホームセンターで購入する使い捨てになってしまいました。)田植えで、苗を運んだりする苗籠など、手作りの竹の道具が、農家の生活のいたるところで使われていました。竹は、農家の家の周囲に自生していて、材料には事欠かなかったのです。ただし、竹籠を編むのは竹職人の仕事でした。竹職人は、数年に一度、村を訪れて、数日間滞在し注文に応じ、用途に合った竹籠を編みます。材料は注文主の提供です。丸竹の板を十文字に組んだ道具を使って4分割し、用途に応じ、道具を使い分け竹を均等に割ったり削いでいく時の竹職人の手際に、観客の子どもたちは見とれていました。苗籠は、一握りにまとめた苗束が立つ高さ、20~30束が入る大きさでその二籠を天秤棒につるしています。
田植えの終わった田んぼを、一カ所だけ選び鯉の稚魚を放流することがありました。稲刈りがすむ頃、田んぼの水を抜き、10センチくらいに成長した幼魚を捕まえて、溜池に放流し、3~4年して成魚になる頃、溜池の水を抜いて捕まえた鯉の成魚は、村の人たちに分配されてタンパク源になります。
田植えあとの米作りは、雑草との闘いです。除草剤などというものが使われる以前の田んぼでは、抜いては埋め、抜いては埋め、雑草との終わることがない闘いが繰り返されます。そのしゃがみ込んで雑草を抜く作業は思った以上に重労働だったのです。病虫害との闘い、台風で被害を受けた稲が田んぼごとペシャンコになってしまうという事があるのも米作りです。
稲刈りは、稲刈り鎌で一束一束刈り取る手作業です。刈って束ねた稲は、北陸の田舎の湿田では、田舟に乗せて畔まで運びます。運んだ稲の束は、“はぞ”と呼ぶ、畝に植えられて生木との間の丸太に、横に40~50センチの間隔、7、8段の縄で結わえた竹に、一束ずつ引っかけて乾燥させます。雨が降らなければ一週間、雨が続いたりすると、そこで発芽するということも起ってしまいます。発芽した米粒は、脱穀、精米の段階で割れ、いわゆるくず米になってしまいます。
稲刈り、稲束を干す作業、干した稲束を取り込んだりするのは、天候次第になりますから、よく晴れた日の夕方から夜にかけて、家族総出で、子どもたちも例外なく狩りだされることになりました。そうして取り込んだ稲束は、納屋に積まれ、脱穀、籾すりをした後、一部は一俵60キロで販売されました。その60キロの米を入れる俵は、冬の間にわらで編んで作りました。わらを編む時の細い縄も、わらを綯って作られていました。これらすべてが手作業であったのはもちろんです。
田起こしも、田植えもすべて機械になりました(苗は育ったものを購入、成長までの肥料を同時に田植え)。雑草は除草剤、害虫にはリモコンヘリコプターで薬剤散布、刈り入れはコンバイインで地域単位に農協に集荷、乾燥機で乾燥して玄米に30キロずつ、○○○産のマーク入りの低袋に入れて完成ということになります。(店頭には、この玄米がブレンド精米されて並びます。)
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