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2012年09月05週
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 石牟礼道子が「言葉の種子」(「葛のしとね」1994年朝日新聞社所収)で、内村鑑三について書いているのを読んで、ただ並べられていただけの「内村鑑三全集」巻9を引っ張り出してきて読んだり、別に「余は如何にして基督信徒となりし乎」(鈴木俊郎訳、岩波文庫。原文は英文、How I Became A Christian:Out Of My Diary,全集巻3)を読んだりしています。
 「古代の英雄というものは、ひょっとして、こういう人柄ではなかったかと思わせるような、稚純性に貫かれたすぐなる文章にひきつけられて、ここふた月ばかり、内村鑑三を読んでいる。はじめ平明な世界と油断していたが、ただの平明さではない。人間にたいする至誠の迫力に息をのみ、その言説のたかまりに巻き込まれて目の奥がくらくらする始末だった」(前掲「言葉の種」)。「言葉の種」で言及されているのは、「鉱毒地巡遊記」「既に亡国の民たり」そして「余は如何にして基督信徒となりし乎」などです。“鉱毒地”は、足尾銅山の渡良瀬川流域の鉱毒の災害地で、明治34年4月21日に足利で開かれた集会の演説者の一人として招かれた時に、そこを“巡遊”して書き残したのが「鉱毒地巡遊記」です。「言葉の種」の「人間に対する至誠の迫力」は、たとえば以下のような“言葉”です。「語を寄す、世の宗教家よ、一日の間を窃(ぬす)んで行(ゆ)いて被害地を目撃せよ、諸氏は信仰上大に益する所あらん。世の小説家よ、杖を渡良瀬川沿岸に曳(ひ)き見よ、諸氏は新たな趣向を得て一大悲劇を編むを得ん、詩人よ、農夫の貧と士家の富を比対(ひたい)し見よ、諸氏の韻文に新たに生気の加へらるを得ん、足尾銅山鉱毒事件は大日本帝国の大汚点なり、之を拭(ぬぐ)はずして、十三師団の陸兵と二十六万頓(とん)の軍艦を有する帝国の栄光は那返にある…」。“災害”について別に次のように言及しています。「世に災害の種類多し、震災の如き、海嘯(かいしょう)の如き、洪水の如き災のは、災たるに相違なきもしかも之れ諦め難きの災にあらず、最も耐え難き災は天の下せし災にあらずして人の為せる災なり…」。それが、内村鑑三にとってただ災いであっただけではなく、「渡良瀬川沿岸の地は埃及(えじぷと)国ナイル川流域の地の如し、即ち最も沃鐃(よくじょう)たる沖積層にして、天下之に優るの土壌あるなし、これ金鉱、銀鉱に優る宝鉱なり」だったのです。穀物が育つ豊かな大地への心からの共感があって、その豊かな大地が蹂躙されることの嘆きと怒りの「至誠の迫力」「言説のかたまり」なのです。
 「至誠の迫力」「言説のかたまり」は「既に亡国の民たり」で、その時の強い国であろうとした大日本帝国にも向けられます。「国は土地でもなければ亦(また)官職でもない、国は其(その)国民の精神である」「国民の精神の失せた時に其(その)国は既に亡びたのである」と。「…我一人の幸福をのみ意ふて他人の安否を顧みず、富者は貧者を救わんとせず、官吏と小人は相結託(あいけったく)して、辜(つみ)なき援助(たすけ)なき農夫職工等の膏(あぶら)を絞るに至っては…その教育は如何(いか)に高尚でも、斯(かく)の如き国民は既に亡国の民であって、只僅(わず)かに国家の形骸をなして居るまま」とも。
 今、領土問題をめぐって、居丈高(いたけだか)であることが競われたり、煽られたりしています。居丈高で威勢の良さを競ったり煽ったりするのは、内村鑑三の言う精神とは似て非なるものです。あるべき国民の精神は、民に相愛の心があり、他人の安否を顧みる心が宿っていることで、民に相愛の心がなければ、他人を顧みる心がなければ、その国の国民に精神が宿っているのでなければ、国民も国も亡びているに等しいのです。
 たとえば、島の領有をめぐって対峙することになっている2つの国は、文化の多くを共有してきました。
  国破山河在
  城春草木深
  国破れて山河在り
  城春にして草木深し
 この、唐の詩人杜甫の「春望」の漢字を、そのまま日本語として読んできました。(読めるのです!)。それほど、漢字(漢語)を通して文化を共有してきた2つの国なのです。それだけではなく、この詩にうたい込まれている自然、生命の豊かさも共有、共感してきました。2つの国の精神は近かったのです。なのに、島の領有をめぐって居丈高に威勢の良さを競ったり煽ったりするのだとすれば、その精神を根本から踏みにじることになります。誰が、何が、精神を貧しくしてしまったのだろうか。
 内村鑑三は、「既に亡国の民たり」で、大日本帝国を厳しく糾します。「精神の失せた時」として。「…其(その)国民は浮薄であって、其商業の多くは欺偽(きぎ)に類する者であって、其教育は知識の売買であって…」と。たとえば今、島の領有をめぐって対峙する時の国民は“浮薄ではない”と言い得るのだろうか。文化や歴史の深い洞察に根ざした精神で、島の領有をめぐる矛盾を見極めていると言い得るだろうか。
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