「釈学から説教への展開、マタイ福音書6章25節~34節」(本書27ページ以下)で、「手の内」が明らかにされています。「手の内」は特別の策や手法ではなく、あくまでも「(共観福音書の)一言一句が完全に一致しているわけではなく、重要な点で表現の相違や欠落、また独自の言葉遣いが見られる。これはこのイエスの言葉を伝えていく過程で、それぞれの福音書作者が教会の信仰に合わせて加筆や削除を行った結果である。…」(28ページ)こととして読み解くことです。こうした取られた「手の内」を駆使してマタイによる福音書6章25節~34節を読む時、「この語りかけの相手として素朴なパレスチナの民衆が想定される。その民衆の中にいて生活を共にしながら、日々の苦労の中で語ったものと見る方が自然である」と言い得ることになります。そして「説教への展開」で、一般的な手法である釈学においても、この態度が貫かれることで、異邦人をめぐる評価では「また『異邦人』が否定的に評価されているが、この言葉は積極的に異邦人を友としたイエスに相応しくない」という読み方を浮上させることになります。このマタイによる福音書の「説教への展開」でも、語りたい説教を聖書のテキストにかこつけて語ったりしないのももちろんです。桑原重夫さんのここからの説教は、「しかも、鳥や花がしないとされているその労働の内容が、イエスと一緒に生活を送ると思われる男や女の日常の働きだったことを思う時、イエスはいつも苦労しながら働いている人たちの姿に対して『まして、(その状況で働いている)あなたはなおさら』と語りかけていると思わざるを得ない」ということになります。
「歴史とテキスト」には「手の内」はいくつも明らかにされていて、その一つが「[第三部]HUCKを使って共観福音書を読む」(53ページ以下)で、その意味と、実際にその手続き、「手の内」を使って共観福音書を読む時に浮かび上がる聖書の言葉や教会の生きた姿、その意味などが明らかにされます。この「手の内」は、たとえ示されたとしても、多くの人の多くの場合、使いこなすことも、その意味も理解さえされないかも知れません。しかし、新約聖書の福音書がその冒頭におかれている意味の重大さを、桑原重夫さんは「古代の教会の選んだ『歴史の知恵』、あるいは、むしろ、『くすしき神の摂理』であると思っている」と書き、このことが「キリスト教が思弁的な神学を中心にした観念的宗教に堕していく傾向に対して『待った』をかけて、『歴史的宗教』であることの特性を常に確認していける可能性を保つ」ことになり、その「手の内」が桑原重夫さんにとってのHUCKということになります。同時に、それは、キリスト教をどんなに思弁的な神学を中心にして組み立てようとしても、「手の内のHUCK」が存在する限り、必ずほころびを露呈することを意味します。(と“感想”ぐらいは書きますが手元に「Synopse der drei ersten Evangelien」(Albert Huck.J.C.B.Mohr Tübingen 1981)」は、ドイツ語と英語の諸言、前書き、そして写本の異同を示す批評装置(と桑原重夫さんが言う)についての解説(だと思う)があって、ギギリシア語で3つの福音書の異同を示すページが始まります。その、HUCKは手元にあることはありますがとても使いこなせなくて、別に桑原重夫さんが推薦する塚本虎二著の「共観福音書同一覧」で、福音書を読ませてもらってます)。という「手の内」を使って、マタイ、ルカ、マルコを読むとどうなるかが本書61ページ~101ページで示され、更に「手の内」を駆使した「番外編」の1~3でマタイ、ルカ、マルコを徹底して読んだ講演の記録が続きます。
「桑原重夫の福音書案内/歴史とテキスト」
著者:桑原重夫
発行・編集:関西神学塾
発売:西宮公同教会出版事業部
定価:1,000円
本書の表紙、中でもカバーには「手の内」を象徴するマタイによる福音書13章52節
「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」が、ギリシャ語で書かれています。
そのギリシャ文字の一つ一つと全体を、本書と桑原重夫さんの働きへの敬意を込め、
岡理恵さんが刺繍で描きました。
ご希望の方は、関西神学塾、西宮公同教会事務所
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