カトリック教会のローマ法王が、フランシスコ1世になった、そのフランシスコが比較的身近だったのは、礼拝を準備したりする時の聖書の一冊に、フランシスコ会聖書研究所訳がそこそこ役立っていたからです。聖書を基に説教を準備する場合、最低限大切にしてきたのは書かれていることから大きく外れた自己流の解釈で話したりしないことだったように思います。聖書が書かれた時の、それを語り、かつ書き残した人たちの本来の意図から大きく外れたことを語ってしまえば、それはウソになってしまいます。それを可能な限り避けようとすれば、原文を読むということになるのでしょうが、それが書かれた背景である古代社会のことを通暁しかつ、聖書本文を読みこなす語学力は誰にでもできることではありません。
フランシスコ会聖書研究所訳(以下、フランシスコ会訳)の聖書は、「原文からの批判的口語訳」を標題に、その標題にいどんだ日本語訳聖書です。それは、半世紀以上前に始まり、旧・新約の合本が発行されたのは、2011年のことです。フランシスコ会訳の第一分冊は、1958年の創世記です。その“はしがき”は以下のように始まっています。「教皇ピオ12世は、1943年9月30日に発布された聖書研究の奨励に関する回勅の中で、『信者のため、また神のことばがよりよく理解されるために、直接原文からの』聖書翻訳を勧めておられます」「神感をうけた著者自身によってしるされた原文は、他のいかなる訳本よりも-それが非常によく訳されていても、また古代語訳であろうと近代語訳であろうと-多くの権威と重要性をもつものであります」。こうして始まった、「原文からの批判的口語訳」の“批判的”は写本として残されている古代の文書である聖書の、異なった読み方(異読)を、考察することで、フランシスコ会訳の巻末にはその「原文批判」が記載されています。
「原文からの批判的口語訳」とは別にフランシスコ会訳の特長の一つが、ページ毎に付けられた詳細な注です。フランシスコ会訳聖書はこの注を活用することで、聖書の言葉の起源を手がかりに、大きな誤りを犯さずに、聖書を読むことを可能にする意図で発行された日本語訳聖書です。ただし、随所にカトリック教会の教理の解説になったりする場合もあるのですが。
西宮公同教会で“公式”に使っている聖書は日本聖書協会訳(1955年、略して協会訳)です。協会訳は、1951年にアメリカで発行された英語版の「改訂標準訳」(Revised Standard Version、略してRSV)をもとに日本語訳された聖書と言われています。「RSVはまことに最高の翻訳である…」(「書物としての新約聖書」田川建三)、RSVをもとに翻訳された協会訳は、そこそこ評価されてきましたが、1987年に「聖書、新共同訳」が発行され、多くの教会はそれを公式聖書として使うことになりました。この聖書が「新共同訳」であるのは、「歴史に明らかなように、教理上幾つかの点で主張を異にする」「カトリック教会とプロテスタント諸教会」の共同作業で翻訳したことに由来します。この翻訳は、フランシスコ会訳が「原文からの批判的口語訳」であることを強くこだわったのとは別に、カトリック教会とプロテスタント諸教会の“共同訳”であることが尊重され、それは付けられることになった小見出しや訳文にも影響を与えることになりました。
西宮公同教会では、多くの教会が新共同訳を公式の聖書に切り替えた後も、協会訳、そしてもとになったRSVが優れた翻訳であることを理由に、そのまま教会の公式聖書として使っています。教会、教会関係施設は、1987年に新共同訳聖書が発行されて、公式聖書をそれに切り替え、それまでの協会訳聖書を廃棄することになります。西宮公同教会では、その時に廃棄されることになっていた、医療施設から協会訳聖書を大量に譲り受け今も使っています。
カトリック教会の聖書の翻訳の仕事は、1934年の創世記の分冊発行に始まり、2011年の合冊発行まで70年以上かかっています。旧約・ヘブライ語、新約・ギリシャ語の古典語とその周辺世界の言葉や歴史を熟知した翻訳の仕事は、たやすくはないのです。現在、そのたやすくはない仕事、新約聖書全巻の日本語訳が進行しています。「田川建三、訳著、新約聖書、全6巻、全7冊」(現在、第4巻、5冊まで刊行されている)です。原文からの直訳、フランシスコ会訳などをはるかに超える注が付されたこの聖書は、新約聖書について、少しはウソではないことを語ったり、書いたりする場合に避けては通ることのできない翻訳になっています。
ずいぶん前から、普通に協会訳の聖書を読むのとは別に役立ってきた、新約聖書の翻訳の一つが「新約聖書、福音書」(塚本虎二訳、岩波文庫、1958、以下塚本訳)でした。「訳文については多く意を用いず、ただ正確に訳することだけに全力を注いだ」「正確と言っても、一言一句を機械的に訳出する在来の聖書改訳のいわゆる正確さをすてた」(訳著、あとがき)は、たぶん、フランシスコ会訳の「原文からの批判的口語訳」の立場に立ったものだと思われます。今、手もとに残っている塚本訳福音書は、ぼろぼろとは言わないまでも、周囲は擦り切れて赤茶けてしまった聖書です。
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