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小さな手大きな手

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2013年06月05週
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 現在、市販されている米などの食材には、産地・品種などが表示されています。消費者は、産地・品種などを確認し、“安心”して購入するということになっているのです。消費者が安心して、産地・品種などを確認して購入する、その“安心”とは、“安心”できる流通ルートの、“安心”できる生産者までが保証されている“安心”です。
 たとえば米の場合の“安心”は生産者の場合からだと、たぶん次のようになっています。今年も、幼稚園の子どもたちは後川で、田植の様子を見て少しだけ苗を植えました。後川の場合、国の圃場整備事業でおよそ2反平均の長方形に整備された田んぼに田植機で苗が植えられて行きます。2,3本ずつ5条分を等間隔に植えて行く優れものの田植機です。この田植機は、苗を植えると同時に、成育するまでの3種類の化学肥料を撒きます。収穫まで4~5ヶ月の稲は、途中“追肥”が必要になるのですが、田植機の撒く肥料には、茎が育ち、果実が育ちなど異なった種類のものが混ざっていて、更にその溶解速度(コーティング材によって?)が違いますから、田植の時の施肥1回で済んでしまうのです。それには、除草剤などの農薬も混ざっています。いずれにしても、この場合の化学肥料も農薬も“公認”されたものですから、米になって流通する場合も“安心”ということになります。更に、稲の苗の場合も、どんな種もみを使っているかなど、“素性”がはっきりしていて、米になって流通する場合の産地・品種など“安心”が保証されることになります。たぶん、こんな具合ですから、たとえば後川で米作りをする場合、この“流通”がキーワードになります。流通のルールを外れた米作りは難しいのです。
 “つづき”となっているこの文章の前回で紹介した新聞の論説は、「人口の膨らむ世界は食糧争奪の時代だ。日本は環太平洋経済連携協定(TPP)入りと減反廃止で、拡大させる農政に切りかえる好機にある」でした(6月16日、朝日新聞)。要するに、現行の米の流通を前提にして、それを拡大する考え方です。「高効率の主業農家に農地が集まり」生産量が多くなり、米の価格も下がり、食糧(米)の自給率も増え、「コメを守るとはいったい誰を、そして何を守ることなのか。そこから考えたい」という考え方です。これを後川にあてはめてみた場合については、前回の“つづく”で少しばかり考えてみました。広がっている田んぼの多くが、そこで生活してきた人たちのものではない場合の風景は、どんなに緑豊かで、そして稲穂のたれる風景であったとしても、それはただの米の生産工場にすぎなくなります。
 後川の稲作・米作りの現実を農業経営のこれからで見る時、たやすく見通しがたつ訳ではありません。たとえば、平均7反(?)の米の収穫は、1反あたりの平均を500キロとして、約3500キロです。最近の米は、30キロ入りの紙袋一つの単位になっていますから、117袋の市場価格の平均を1万円として、7反の米は117万円になります。これは市場価格の平均で、流通の安心ルート、農協の場合の買い取り価格はうんと低くなります。別に生産費として、苗代・肥料・農薬代・耕運機・田植機・稲刈機(別に乾燥機など)などの費用がかかります。もし、後川で平均的に7反の稲作・米作りをしていて、経費(農業経営)がこんな具合だったとすれば(要するに人件費も出ない)、「高効率の主業農家に農地が集まり」は避けられないかも知れません。でも、その時に後川は、小さな米の生産工場であっても、自然の営みも含め、そこで生きる人たちの世界ではなくなってしまいます。
 幼稚園の子どもたちと後川に出かけることになったのは、そんな世界を追認する為ではありませんでした。米作り・稲作が幅広くその地域の人たちによって担われて、更に持続する可能性を、そこに出かけて行く子どもたちや自分たちのこととして考え、担って行く一歩を刻みたい願いで始まった(始めた)ように思っています。
 以下、その場合の要点だけをあげてみます。
 ①米を食べる人たち、いわゆる消費者が米作りに参加する。前述のように現在の米作りは、機械と化学肥料、農薬に依存しており、その分が費用として農家の大きな負担になっている。米作りの参加は、その費用についても消費者が応分の負担をしていると考えれば、現在の米の市場価格は高くないし、むしろ安過ぎるように思える。
②米を食べる人たち、いわゆる消費者の米作りへの参加は、米作りそのものを根本から変えて行くように思える。“流通”の利害が安心に置き換えられるのではない米作りへの挑戦。即ち、化学肥料・農薬などを使わない米作りだが、これはなかなか難しい。米を食べる人たち、いわゆる消費者が参加し、労働力を応分に負担すれば、機械、化学肥料、農薬などの使用(その分経費)を少なくすることは可能!。もちろん、こんな米作りは易しくないが、挑戦している人たちはいる(「究極の田んぼ/耕さず肥料も農薬も使わない農業」岩澤信夫など)。
③たぶん、こうした米作りは、自然との接点をより多く作り出すことで、最も人間らしい、人間関係作りでも、未来、中でも子どもたちにとって必要であるように思える。
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