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2013年07月01週
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 政治・選挙は子どもの頃から身近でした。高校生の頃、母方の祖父は田舎の町(富山県氷見市)の市長でした。その選挙で心に残っているのは、選挙運動のトラックの荷台で、土下座して支援をうったえているのを目撃したことで、高校生は傷つきました。田舎の町を含むその頃の衆議院富山2区は、保守の大物政治家が2人、ずっと議席を独占していました。政治好きの父(学校の教師だった)は、そのうちの一人が地盤を引き継ぐ前の政治家の時から応援していました。
そんな保守の地盤の田舎の町に、県職員から組合の専従になっていた兄が、いわゆる革新系で県議選に立候補することになって、保守の大物政治家を応援していた父、親戚、村の人たちは大騒ぎになりました。元々が保守の父や村の人たちは、村出身ということで、保守の県議選立候補者と争う兄の選挙に巻き込まれることになりました。一回目は落選でしたが、その時のリーフレットには、あんまり実家に帰ることのない兄家族と父母がなごやかな様子で、写真におさまっていました。2回目は当選、3回目は落選で、この時には叔父や村の人たちが何人も選挙違反で逮捕されたりしました。そして、5回目の時にまたまた親戚・村の人たちが大騒ぎになりました。大学を卒業してすぐ、保守の大物政治家の秘書をしていた、母方の従兄弟が同じ地盤で県議選を争うことになったからです。母にとって中でも厳しかったのは、兄弟姉妹で骨肉を争うことになってしまったことです。このことがあってから、父は母の実家との付き合いを一切拒み、母はそれに従わざるを得なくなりました。2人の従兄弟は、2回の県議選を争い、従兄弟の方は田舎の町の市長になり、主義主張は違いますが、住み分けることにはなっています(その従兄弟は、今回参議院選の候補者です)。
こうして、政治・選挙は身近でしたが、どの場合も一切手伝うということはありませんでした。最初の頃の県議選の終盤に、兄本人から「助けて欲しい」と電話がかかってきたりしました。たぶん、役割があるから、ということで断ったように思います。父兄はもちろん、親戚、村の人たちを巻き込んで、多大の犠牲を強いる田舎の選挙の“後始末”の手伝いくらいが役割だと思っていました。父の選挙、息子の選挙で、近隣との付き合いなど他の誰よりも苦労してきたのは母でした。息子の選挙で、文句なしにお願いし続けることになる母は、「道端の草花にも、頭を下げて歩いている」というようなことを、よく口にしていました。そして、選挙の終わる4年毎に大病で倒れていました。そんな母のことを含め“後始末”の手伝いが、政治・選挙が身近である時の役割でした。
そして、身近に見てきた政治・選挙について言えることがあるとすれば、本人たちが政治・選挙で魅了されていたのは“権力”“権威”であったように思います。どんな田舎の、どんなささやかな“権力”“権威”であったとしても、電話一本で、裁決できてしまえるのがある局面での政治権力です。どんな田舎の、どんなささやかな“権力”“権威”であっても政治権力は決定権を持ちます。政治が人を魅了する何よりの力、“権力”の行使をする人になった時、たとえば兄や従兄弟はそれで、自分が何を失うかは気付いてはいませんでした。
政治、議員の場合仕事の代価を報酬と言ったりします。特別の意味をこめてなのでしょうが、選ばれた人であるにせよ、議員というのは仕事です。すべての仕事がそうであるように、それなりに代価をもらう仕事の一つが議員なのです。もし、それが“権力”“権威”に関わるものであったとしても仕事です。そして、仕事である限りほかのどんな仕事とも変わりはないという意味での謙虚さは、兄や従兄弟にはなかったように思えます。
たとえば、母や父にとって、議員である兄のことは、とても世俗的なことがらであったように思います。せめて議員恩給がつくまで頑張ってほしいというのが、母や父の切なる願いだったりしました。なんのことはない、母や父に見えていたのは息子と家族の生活でした。
政治・選挙そして議員が自分のそれが他の誰とも変わらない仕事であり、働いているという感覚を持ちあわせるとすれば、語る言葉も態度もそれに見合うものになるはずです。一人の子どもであり、一人の親であるという、人間の最もあたりまえの自分に立つことであり、そこから語る言葉は、必然的に日常の生活の言葉になります。本来、そうであるべき、政治・選挙・議員の特権化が起こっているとしたら、それを選び、ゆだねる人にも相応の責任があります。
ここ数年、日本の政治及び政治の言葉を貧しくしたのは、民主党政権であったように思っています。形ばかりの、“権力”“権威”にしがみついている間に、政治ならざるもの(官僚たちが)思いのままに振る舞う状況が生まれてしまいました。その後に登場した政権がしていることは「『対米従属ナショナリスト』の無知と時代錯誤」です。「無知と時代錯誤」であっても、一旦走り出すと止められなくなるところへ突き進もうとしているのが、日本の今の政治です。
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