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2013年11月02週
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 沖縄県宜野湾市の佐喜眞美術館は、館長の佐喜眞道夫さんが、丸木位里・俊の「沖縄戦の図」を展示する為、米軍普天間基地の一部を取り戻して、建設した美術館です。美術館は基地に隣接し、屋上からのぞむ基地にはヘリコプターなど(現在は“オスプレー”など)が離着陸しています。佐喜眞道夫さんは、ケーテ・コルヴィッツの作品も集めていて、特別展を開催することもあります。そんな、佐喜眞美術館の会員をしていると、特別展の案内が届きます。今年の子どもたちの沖縄キャンプの日程と重なっていたのが「鄭周河(チョン・ジュハ)写真展」で、今帰仁への途中、立ち寄ることになりました。韓国の写真家、鄭周河の写真は、人の写っていない福島の写真でした。展示室に入ってすぐの壁に掲げられていた詩が、「いまは他人(ひと)の土地−奪われた野にも春は来るか」でした。それは、1901年生まれ、1910年の日本による朝鮮の植民地化(併合)の時代を生きた詩人、李相和(イ・サンファ)の詩でした(訳・徐京植、ソ・ギョンシク)。子どもたちとの、沖縄キャンプの報告「No!!Osprey!! / 2013・公同子ども沖縄キャンプ」で、写真展を訪れた時のことを次のように書きました。「日本の植民地時代・朝鮮の詩人、李相和の見た奪われた大地は、2011年3月11日から後の鄭周河の写真の、人の写っていない福島と重なっています。『奪われた野にも春は来るのか』なのです。そして李相和の詩、鄭周河の写真の展示された佐喜眞美術館の沖縄・宜野湾もそれに重なります」。たぶん報告書のこの文章は、事柄をなぞるだけの軽い言説になっています。写真展が「奪われた野にも春は来るのか」になることについて、前文でいくつかのことが言及されています。前文は東電福島の事故の後の福島を写す時、そして語る時、「16万が原爆で死んだ」広島を抜きにしては語りません。しかし、その時にもう一つのことが言及されます。「冷静に数字でのみ見るのであれば、広島では“わずか”16万が原爆のため命を落とした。日本が引き起こした戦争により、生を最後までまっとうできず死んだ人がなんとアジアに2,000万人もいるのである。広島は日本が引き起こした戦争によって亡くなったアジア人たちの冥福を祈り謝罪したのちに、広島の死を哀悼し記憶することができるだろうか?韓国人は日本人から謝罪を受ける権利があり、日本人は謝罪しなければならない責任がある」。そして続きます。「韓国人は必ず日本から真正なる謝罪を受けなければならない。それは被害当事者たちに対する私たちの責任である」(韓洪九、ハン・ホンクー、聖公会大学教授・平和資料館常任理事)。
 今、多くの日本人にとってこの感覚は遠く、たぶん理解もできないように思えます。ですから、福島のことで、日本の植民地時代を生きた李相和の詩「いまは他人の土地−奪われた野にも春は来るだろうか」をタイトルにすることが許されるかどうか問われ、自らも問います。「一言でいうと、朝鮮民族の切なる痛みを詠んだ名作としてフクシマを詠う時、日本人たちが未だ清算していない過去や問題に容易に慰安されたり、容易に許されると考えることもできるということだ」(同前)。たぶん多くの日本人の心は、この指摘を素通りしてしまうように思われます。
 しかし、写真展のタイトルは「奪われた野にも春は来るか」になり、そのタイトルで日本でも写真展が開催され、写真展は佐喜眞道夫さんのたっての願いで、沖縄・宜野湾市の佐喜眞美術館でも開催されることになりました。「いまは他人の土地」のほんの少しとは言え奪い返した沖縄の佐喜眞道夫さんの強い意志で、福島の写真「奪われた野にも春は来るか」を展示することになったのです。
 しかし、福島では韓洪九の危惧したそのままの事態が進行しつつあります。
 もっとも安易い福島の放棄です。
 2011年3月11日の東電福島の事故では、たくさんの人たちが事故で放出された放射能から逃げ避難することになりました。同じ年の12月16日に重大事故の収束が宣言されました。それは、避難している人たちが元の住居(元の市町村)に戻る(戻れる)ことを意味しました。しかし、福島の11市町村、中でも大熊町、双葉町、浪江町、富岡町、そして飯館村の全員避難は続いています。元の住居の元の大地が放射能で汚れ、人間の住めない大地になってしまったからです。それでも、事故の収束を宣言した国と東京電力は、元の住居、元の大地に戻れることを宣言し、始まったのが降り注いだ納放射能の除染です。そうして除染が可能だとされた放射能は、しかし、無味・無臭・無色で簡単に浮遊・移動し、その毒は中和・除去することができない毒です。更に、5シーベルトの被曝が致死量になり、低線量の場合もそれがどんなに少なくても影響は避けられません。その放射能が国際的な上限の1m㏜/年を超え8県102市町村に降り注ぎました。前場の大熊町、双葉町、浪江町、富岡町などの場合、それををはるかに超える、50m㏜/年の帰宅困難区域、20〜50m㏜/年の居住制限区域、5〜20m㏜/年の避難指示解除準備区域が町の大半を占めています。それでも東電福島の事故は収束が宣言されたままです。除染が条件とは言え、それは元の住居(元の町)へ戻ること、戻れることを意味します。当面、低線量の避難指示解除準備区域での除染が始まっています。もちろん、放射能の除染は難しく、一旦除染した地域の放射線量が元の値に戻るということも続出しています。
 そうして言われ始めたのが「『全員帰還』緊持か転換か/政権、福島の反応を見極め」です。2011年3月11日の東電福島の事故で、福島の広い大地は人間の住めない場所になりました。鄭周河の写し出した写真の福島の大地です。「いまは他人の土地−奪われた野にも春は来るか」の福島の大地です。しかし、事故の収束は宣言され、放射能を除染して人間が戻ることになりました。それなのに、今頃になって「『申し訳ございません。この地域は住めません。その代わりにこのような手当てをします』と、いつか誰かがどこかで言わなきゃいけない」などとなったりします(石波蔵、11月4日、朝日新聞)。だったら、何より先に「言わなきゃいけない」のは、「申し訳ございません。東電福島の事故は収束を宣言しましたが、実は収束していません」であるべきはずです。
 鄭周河写真集の前文で、韓洪九が何よりも危惧した“日本人”が、臆面もなくここに登場しています。それは、そこで生きた人間の命そのものの大地を「他人の土地」にしてしまった日本人であり、「奪われた野にも春は来るか」の「春」を平気で裏切る日本人であるとも言えます。
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