(前回より続き)
この「花を奉る」があって書くことになったのが「海と波のエレジー」(石巻エレジー)です。
海と波のエレジー(石巻エレジー)
壊れた町を さまよって
今日出会った 花一輪
誰の夢を 咲かすやら
誰の魂 宿すやら
ばっちゃんの海 じっちゃんの波
母ちゃんの海 父ちゃんの波
海 海 海は 海まかせ
波 波 波は 波まかせ
壊れた町を さまよって
今日見つけた 石ころ一つ
誰の無念が こもるやら
誰の魂 宿すやら
ばっちゃんの海 じっちゃんの波
母ちゃんの海 父ちゃんの波
海 海 海は 海まかせ
波 波 波は 波まかせ
壊れた町を さまよって
今日見上げた ち切れ雲
誰の望みを つなぐやら
誰の魂 宿すやら
ばっちゃんの海 じっちゃんの波
母ちゃんの海 父ちゃんの波
海 海 海は 海まかせ
波 波 波は 波まかせ
壊れた町を さまよって
今日出会ったひと一人
誰の名前を呼ぶのやら
誰の魂 宿すやら
ばっちゃんの海 じっちゃんの波
母ちゃんの海 父ちゃんの波
海 海 海は 海まかせ
波 波 波は 波まかせ
ばっちゃんの海 じっちゃんの波
母ちゃんの海 父ちゃんの波
海 海 海は 海まかせ
波 波 波は 波まかせ
被災者生活支援・長田センター、兵庫県南部大地震ボランティアセンターの働きがきっかけで、石巻立町(たちまち)復興ふれあい商店街2周年に、記念のふろしきを贈呈することになっていたのが「海の波のエレジー(石巻エレジー)」の石巻です。デザイン及び制作は、幼稚園の旗などをお願いしている福井恵子さんです。福井恵子さんと現地石巻を訪問することになった、9月中旬に、ふれあい商店街の人たちとの交流に井本英子さんは「海と波のエレジー(石巻エレジー)」の作曲を間に合わせ、更に“カラオケCD”も用意することができました。そして、石巻での交流の9月18日、集まった人たちの前で「海と波のエレジー(石巻エレジー)」を歌いました。その時には、決まっていませんでしたが、その後の話し合いで、西宮からミニ合唱隊が石巻に行くことになり、12月10日の2周年、そして贈呈式で、その歌を石巻の皆さんと歌うことが決まりました。12月10日、ミニ合唱隊は立派に任務を果たし、歌の心は少なからず、3,518人が亡くなり、442人が行方不明のままの石巻の人たちに届けられたように思っています。
水俣病の人たちのことを伝える、中心の働きを担うことになった一人、石牟礼道子の生涯を、直接映像で伝える「石牟礼道子ラストメッセージ/花の億土へ」の試写会の案内が届いたので、あれこれ工面して出かけることにしました。「椿の海の記」で出自や生きてきた世界である天草や水俣の海のことを石牟礼道子が描いた時にも、そこには生と死がありました。しかし、チッソ水俣のたれ流した有機水銀の毒は、石牟礼道子の共生する人や自然のすべてから、未来を奪うことになりました。「未来はあるかどうかはわからない」、けれども「希望ならばある」と言い切る石牟礼道子の世界が「花の億土へ」で描かれることになりました。ただ、ぼんやりと未来がそこにあるのではなく、「文明の解体」「闇」から一瞬たりとも目をそらさないところから、初めて見える石牟礼道子の「光」「創世」なのです。それをつないで更に切り開くものは何なのか。それが、「花を奉る」の後の「祈り」です。その「祈り」は、チッソ株主総会に乗り込んだ水俣の人たちの描写では以下のようになります。「『東京に来てみたら、水俣のほうがまだよかかもわからん』と言っていました。『私たちは純粋に水俣病一丁で病んどるが、東京の者はいろいろ病んどるばい』って」になったり、「…水俣では晴れて泣くところもなかった。故郷というのはそういうところでもある」こそが祈りなのです。言葉ではなく、石牟礼道子において存在の極みが祈りなのです。
いちまいのまなこあるゆゑうつしをり
ひとの死にゆくまでの惨苦を
(石牟礼道子歌集「海と空のあいだに」1989年葦書房)
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