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小さな手大きな手

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2014年01月03週
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 新約聖書には、馬についての記述がいくつかあります。「馬を御するために、その口にくつわをはめるなら、その全身を引きまわすことができる」(ヤコブの手紙3章3節)。馬はくつわで「引きまわす」、即ち制御することはできるが、しかし人間の舌は制御するのは難しいことを、それを際立たせるたとえとして書かれています。一方、確実に完全に制御できてしまうとされているのが、くつわをはめた馬です。「その口にくつわをはめるなら、その全身を引きまわすことができる」と。
 ヤコブの手紙が馬のことで書く、「その口にくつわ」をはめられて「その全身を引きまわされる」は馬にとってどんなものかを、「黒馬物語」(シュウエル作、土井すぎの訳、岩波少年文庫)の馬(ブラック・ビューティ)が独白します。以下、くつわをはめられた馬の言い分を、少し長くなりますが引用します。「わたしはもちろん、ずっとまえから、ハズナやトウラクになれ、原っぱや小路を、しずかに引きまわされることにもなれていましたが、こんどは、ハミ(くつわ)とタズナをつけることになりました。ご主人は、いつものように、カラス麦をくださって、わたしをさんざん、なだめすかしたりしたあと、わたしの口にハミをかませて、タズナをつけました。けれど、それは、まったく気もちのわるいものでした!。じぶんの口にハミをはめられたことのないひとには、それがどんなに気もちのわるいことか、考えられるものではありません。人の指くらいの太さの、ヒヤッとして、かたい鉄の棒きれが、口のなかの歯と歯のあいだ、それも舌の上につっこまれるのです。両端は口の両がわにはみ出しています。そして、頭の上からのどの下をくぐり、鼻をまわってあごの下にかけた、いく本もの皮ひもで、しっかりとめられるのです。ですから、どんなにしても、このやっかいなゴツゴツしたものを、はずすことはできません。それはやりきれないことです。やりきれない!そうです、ほんとにやりきれないことですよ」。ヤコブの手紙が完全に制御するたとえとしての馬の言い分です。馬を完全に制御するくつわ(ハミ)は、馬の肉体に食い込む異物で、その異物で苦痛を与え馬を完全に制御します。「くつわをはめて、全身を引きまわす」と書くヤコブの手紙は、もちろんかけらも、「黒馬物語」の馬(ブラック・ビューティー)の「やりきれない!」に思いを馳せたりしません。
 新約聖書で馬は、使徒行伝23章23,24節の「それから彼は、百卒長ふたりを呼んで言った。『歩兵200名、騎兵70名、槍兵200名をカイサリヤに向けて出発できるように、今夜9時までに用意せよ。またパウロを乗せるために馬を用意して、彼を総督ペリクスのもとへ無事に連れて行け』」以外すべて黙示録です。

6章2節「白い馬が出てきた」
4節「赤い馬が出てきた」
5節「黒い馬が出てきた」
8節「青白い馬が出てきた」
9章7節「出陣のととのえられた馬」
9節「…馬に引かれて戦場へ急ぐ」
17節「…馬の頭はししの頭」
「馬の力はその口と尾とにある」
14章20節「血が…流れ出て…、馬のくつわにとどく」
19章11節「そこに白い馬がいた」
18節「勇者の肉、馬の肉」
19節「…軍勢とが集まり、馬に乗って」
 「…出てきた」と書かれる場合の馬は、どの場合も、その様子は、「その全身を引きまわされる」馬であり、「それに乗っている者は、弓を手に持っており」「それに乗っている者は、人々が互いに殺し合うようになる」、 “軍馬”として使役される馬です。想定されているのは、ローマ軍の騎兵の乗る戦さ馬であり、それには馬に象徴されるローマの支配に対する激しい憎悪が込められています。一方でそのローマの支配は覆すことが難しいことも認めざるを得ないものとして。だからと言って黙示録が、こうして馬を描く時「黒馬物語」の馬が「やりきれない!」思いで生きていることには、関心が向けられることはありません。
 一方、イエスが乗ったとされる唯一の乗りものはろばです。「…ベタニヤの付近にきた時、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、『むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子が、つないであるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい』」(マルコによる福音書11章2、3節)「そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった」(7節)。この時の様子から、ろば(しかもろばの子)に乗る必要も必然性も無いように思えますが、敢えてそれをするのは、マルコによる福音書の描くイエスの「主張」がそこに示されているように思えます。一同が互いに殺し合う血なまぐさい戦場で「くつわ」で「全身を引きまわされる」道具ではない生きものと人間の姿が、ろばに乗るイエスによって表現されていると考えられます。以下、2014年西宮公同教会新年礼拝の式次第に書いた「馬」です。

僕のことですか
 競走馬と 呼ばれることもあります
 走って走って走りぬきます
 でも 草原でぼんやり
 たたずんでいる時が
 とても しあわせでした
 戦争は よくない
 戦争は よくないです

 僕のことですか
 輓き馬と 呼ばれることもあります
 重くても曳いてみせます
 でも 草原でゆっくり
 歩き回っている時が
 とても しあわせでした
 戦争は よくない
 戦争は よくないです

 僕のことですか
 戦さ馬と 呼ばれることもあります
 走り出したら 止まりません
 でも 草原でのんびり
 くつろいでいる時が
 とても しあわせでした
 戦争は よくない
 戦争は よくないです

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