日本キリスト教団西宮公同教会・西宮公同幼稚園
教会について
礼拝・諸集会のご案内
小さな手・大きな手
公同通信
教会学校について
公同幼稚園について
どろんこと太陽
関西神学塾:スケジュール
関西神学塾:講師紹介
楽しい学習
賃貸住宅事業部とは
テナントについて
活動内容
アートガレーヂについて
催し物のご案内
リンク
アクセスマップ
お問い合せ
width=1
top>小さな手大きな手
width=639
小さな手大きな手

height=1
2014年01月04週
height=1
 12月25日〜28日の、東北・仙台と石巻のもちつき(よもぎもち・もちつき隊)から帰り、一日おいた30日に神戸市兵庫区本町公園に隣接する兵庫県被災者連絡会のもちつきを協力しました。
 兵庫県南部大地震の被災者のもちつきは、1995年12月の、神戸市役所前での集まりが最初でした。たくさんの屋台などが並ぶ中で、もちつきは一か所だけでした。マキストーブをたく周りに人が集まって、つき始めると、つき手はもちろん、返し手の業を披露する人など、集まった人がみんな参加者になってしまう、もちつきの威力をまざまざと見せつけることになりました。翌年の、神戸市役所前の被災者の集まりは、全国各地から集まった、10を超えるグループが1,000キロ近いもちをつくことになりました。もちつきは、そこにいる人たちをつき手として、返し手として、そして何よりも、一面識もなかった人たちが、声をかけあう関係になってしまうのです。神戸市役所前の、被災者の集まりとは別に、大地震の後、本町公園に避難していた人たちのもちつきも引き受けることになりました。公園の避難は2000年で終了することになりましたが、もちつきは公園に隣接して設けられた、兵庫県被災者連絡会の拠点で引き継がれることになりました。本町公園に避難していた人たちは、(最初の日の野宿から、自衛隊のテント、そして日本基督教団の提供した、民間の仮設住宅で生活していた)、その避難所で生活が終了した後も、公園の桜の花見、そして、年末のもちつきを、「同窓会」の一つとして大切にしてきました。花見の時も、そしてもちつきに寄せてもらう時も、その度に同窓会の仲間として迎えてもらいました。そして、市役所前の被災者の集まりがそうであったように、集まったみんなが仲間になってもちつきは盛り上がりました。同じ日の午後、神戸市役所南の東遊園地に移動し、路上生活をする人たちの年末年始を支援する集まりでもちつきをします。被災者連絡会で、約80キロのもちをついて、つきながら順次片づけを済ませ、あっという間に東遊園地にかけつけ、マキストーブで火をたいて、もちつきを始めてしまうという離れ業を、毎年繰り返してきました。東遊園地のもちつきでも、集まった人たちは、声を出すだけであっても、参加者になります。(ちなみに、この東遊園地の路上生活者を支援する集まりの、みそ汁の“ダシ”の一つになっていたのが、日本料理の花ゆうの、おせち料理に使っていたえびの頭です。年によっては、いせえびも。えびの頭は、一部はダシに、一部はマキストーブの上でこんがり焼いて、ぱらぱらと塩をふってふるまうのですが、路上生活の人たちはもちろん、支援で集まった人たちにも、大好評でした。更に、花ゆうの“おやっさん”は、大忙しの中、おせちの野菜のはしっこを煮込んで提供してくれたりもしました)。
 被災者連絡会のもちつきは、2013年で最後になるようです。場所を明け渡さざるを得なくなるからです。もちつきに訪れる度に、“同窓会”の仲間としてむかえてくれた人たちに出会えなくなるのは、とても残念です。
 大地震で被災した人たちといろんな人たちをつなぐ、兵庫県被災者連絡会を中心になって担ってきたのが、代表の河村宗冶郎さんです。本町公園に隣接する自宅で被災し(自宅のあったビルは全壊)、2日目に公園に顔をのぞかせてしまったのが、「運のつき」で、被災者として生き、被災者の世話をする働きを20年近く続けることになりました。どんな時も作務衣で、背中をピンと伸ばし、相手の真正面に立ち、どんな時にもひるまず、更に口達者の河村宗冶郎さんは、公園に顔を出してしまったその日から(1995年1月18日)、被災した人たちの声を代弁することになりました。その公園が指定避難所ではないことを理由に、救援物資(緊急の食料や防寒用の衣服、寝具など)が届かない時、河村宗冶郎さんの“弁舌”は行政の厚い壁を突破してしまいました。そして、自分が被災者として生きる一方、被災してそこにいる人たちの声を代弁する、兵庫県被災者連絡会の中心になって担うことになって19年です。
 そして、仮設住宅の建設を理由に(仮設住宅を必要とする被災者の多くが一人暮らしの高齢者だったにもかかわらず、生活を難しくする遠隔地に、多くの仮設住宅は建設された)、避難所が閉鎖されようとした時、反対する人たちの先頭に河村宗冶郎さんは立ち続けました。
 そして、災害救助法の期限の2年が経って、仮設住宅が閉鎖されようとした時も反対する人たちの先頭に河村宗冶郎さんは立ち続けました。
 正式な避難所ではない、本町公園の避難所と、そこでの生活が続く人たちの生活を守る人たちの先頭に立ち続けたのも河村宗冶郎さんです。
 「一人の被災者もとりこぼさない!」を使命に大地震後を生きた、兵庫県被災者連絡会と河村宗冶郎さんの働きが、拠点を失うことで大きな転機を迎えることになります。
 (河村宗冶郎さんの、兵庫県南部大地震の後の被災者として、被災した人たちと歩んできた歩みは、兵庫県南部大地震を記録する特別セミナー実行委員会の手で2009年に「河村宗冶郎/被災者であり、被災者といっしょにいきてきた河村宗冶郎を語る」としてまとめられています。発行、同実行委員会、1,400円)。

height=1
[バックナンバーを表示する]
height=1


フ皃width=80

Copyright (C) 2005 koudoukyoukai All Rights Reserved.