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小さな手大きな手

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2014年02月03週
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毎月、たくさんの絵本が新刊で発行されています。出版社や絵本作家が、その一冊に精魂を込めて子どもたちに送り出しているに違いありません。それが子どもたちの心に届く、完成度の高い絵本になっていくかどうかの、何よりの決め手は、50年、時には100年の単位で、子どもたちに支持されるかどうかです。「100冊の絵本」で紹介してきた絵本は、「子どもたちに支持される」、それが「50年、時には100年」であることを、目安にしてきました。生命力を持った絵本は、それに加えて①生きものたちが生きる世界の真実が描かれていること、②子どもたちの明日への希望につながる物語であること(躍動し、かつユーモアを忘れない!)が、貫かれている必要があります。
 「はなのすきなうし」は、どんな動物も保障されなくてはならない、生きものとしての基本が見すえられた物語です。フェルジナンド、牛にとって、他のすべての動物にも(人間も!)保障されなくてはならないのは、生きものとしての尊厳です。もし許されるなら、その生きものらしく、生きることが約束・保障される時の、しあわせに生きる瞬間が、一番生き生きとしているはずです。フェルジナンドが、闘牛場から、元の牧場に戻った時の様子を、作者のマンロー・リーフは、黒のシルエットで絵を描き、「ふぇるじなんどは とても しあわせでした」と書きました。人間の子どもたちの場合も同様で、自分の居場所があって、自分らしい生き方が保障されている時「ぼくは とても しあわせでした」と言い得るのです。
100冊の絵本⑩
 「くるぞ くるぞ」(内田麟太郎ぶん、長新太え、童心社)。この絵本が、“限定100冊”に入るかどうか、別にして、子どもの本・絵本に求められる、一番大切な驚きや喜びや不思議が、ふんだんに描かれている、という意味で、100冊の絵本の一冊になりました。“ぶん”を書いている内田麟太郎は、絵を描いている長新太を「ぼくの先生」とし、先生から教えられたのは「絵本には絵本のことばがあります」だと書いています。そうです、長新太の絵本は、「絵本のことば」で描かれていて、子どもたちを魅了してやまないのです。
 「よもぎだんご」(さとうわきこ さく、かがくのとも傑作集、福音館)。道ばたに、どこにでも見つかるのが、よもぎです。一番雑草らしくて、たくましいのもよもぎです。そのよもぎは、子どもの頃のすり傷の薬になりました。もちつきに必ず登場して、よもぎもちになりました。「よもぎだんご」は、よもぎで簡単に、そして間違いなく誰でも、よもぎだんごができてしまうレシピです(一つだけ、蒸し器が手元にない場合の、工夫は必要です)。「よもぎだんご」のよもぎだんご作りは、そこにいた誰でも、子どもたちもそんな仲間の一人になってしまいます。そして、何よりなのは、よもぎと一緒につんできた、のびるも、せりも、つくしも、よもぎだんごパーティーのテーブルに並んでいることです。
 「アイヌ ネノアン アイヌ」(萱野茂 文、飯島俊一 絵、たくさんのふしぎ傑作集、福音館)。北の大地は、もとはと言えば「アイヌ ネノアン アイヌ」(人間の大地)でした。人間の大地で、人間として生き、人間として生きていた人たちのことが、アイヌ人である萱野茂によって描かれたのが「アイヌ ネノアン アイヌ」です。
 「ちいさい おうち」(ばーじにあ りー ばーとん ぶんとえ、いしいももこ やく、岩波書店)。表紙から始まって、裏表紙まですべてに、「ちいさい おうち」のなんであるかが、ふんだんに余すところなく描き込まれています。バートンが、この絵本で、何より描きたかったのは、人間の生活がゆるやかに、ゆったりと繰り広げられている世界でした。それはすべてのものが、草花や木々はもちろん、小鳥たちも、飼われている動物たちすべてにとって、例外なく、“しあわせ”な世界でした。その中から、「小さいおうち」の人間が、人間だけの世界へとび出して行ってしまいました。そこから戻る人間の物語が「ちいさい おうち」なのです。
 「ビロード うさぎ」(マージェリィ・ウィリアムズ ぶん、ウィリアム・ニコルソン え、いしいももこ やく、童話館出版)。最近、それが、「マージェリィ・W・ビアンコ/原作、酒井駒子/絵・抄訳/ブロンズ新社」になって出版されています。子どもたちに読み聞かせするのは、長い物語ですが、だからと言って、“抄訳”はいけません。人形の動物が子どもたちの世界の重要なパートナー、ヘルパーである微妙で繊細な意味が、抄訳されることによって失われてしまうからです。
 「カラス笛を吹いた日」(ロイス・ローリー 文、バグラム・イバトゥーリン 絵、島式子・島玲子 訳、BL出版)。カラスネットがあたりまえになっている、嫌われもののカラスですが、そうして生きものとしての尊厳をカラスから奪ってしまう時の人間は、自分たちがそのことによって失っているものに気付いていません。「カラス笛を吹いた日」のカラスも、畑を荒らすカラスです。しかし、カラス笛を吹いた時、「私」の周りで鳴いたカラスは、ただただ嫌われもののカラスではなく、生きものとして、共存・共生するカラスでした。
 「やあ!出会えたね。ダンゴムシ」(今森光彦 文・写真、アリス館)。うす黒くて、もぞもぞ歩いていて、すぐに丸まってしまうダンゴムシが、今森光彦の写真で、生きものとしての輝きを、存分に子どもたちの前で繰り広げます。どんな生きものも、それを生きものとして、拒絶せずに見つめる時、必ず生命の輝きを発見することになります。発見せずにはおかないことを、今森光彦のダンゴムシの写真が証明しています。
 「たんぽぽ」(甲斐信枝 作・絵、金の星社)。本物のたんぽぽを見つけることがあって、絵本「たんぽぽ」のたんぽぽに出会って、みんな、たんぽぽが大好きになります。そして、たんぽぽに出会う散歩も、里山を歩くことも、楽しくて大好きになります。
 「スーホの白い馬」(大塚勇三 再話、赤羽末吉 画、福音館)。うんと、うんと昔から、人と馬(羊も牛も…)は一緒に生きてきました。一緒に生きてきた分、その生きものたちの尊厳を奪うということは、あり得ないことでした。一緒に生きる生きものたちの、尊厳を守る人間と、尊厳を奪う人間のことが、モンゴル民話「スーホの白い馬」では描かれています。
 「ぐりとぐら」(なかがわりえこ と おおむらゆりこ、福音館)。何気ない、ありふれた生活がどんなに大切かを、そのままに描いたのが「ぐりとぐら」です。どこにも、人間の子どもが描かれていませんが、めくったどのページにも人間の子どもが描かれていても不思議ではないのが「ぐりとぐら」です。だから、子どもたちは「ぐりとぐら」を選んできました。
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