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小さな手大きな手

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2014年04月01週
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旧約聖書に書かれている「あわれんではならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足をもって償わせなければならない」と書かれている“応報”には、いきなりではなく、手順としての裁判のことが書かれています。「どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべての人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。もし、悪意のある証人が起って、人に対して悪い証言をすることがあれば、その相争うふたりの者は主の前に行って、その時の祭司と裁判人の前に立たなければならない。その時、裁判人は詳細にそれを調べなければならない。そして、その証人がもし偽りの証人であって、兄弟にむかって偽りの証言をした者であるならば、あなたがたは彼が兄弟にしようとしたことを彼に行い、こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば他の人たちは聞いて恐れ、その後ふたたびそのような悪をあなたがたのうちに行わないであろう」(申命記19章15〜21節)。「不正」「とが」「犯す罪」に対する裁きは文句なく厳しい“応報”です。と書いている申命記の記述では、その場合の手順についても厳しく条件がつけられています。「…ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言」を求めます。別の証言者が「もし悪意のある証人が起って、人に対して悪を証言する」場合、その証人は裁判人に裁かれると、証人・証言も厳しく問われるのです。
 およそ35年前に西宮で起こった、甲山学園事件では、20年以上の歳月を経て被告とされた人の冤罪、完全無罪であることが確定しました。「こがね味噌事件」の袴田巌は、死刑が確定してから48年、やっと静岡地裁が再審開始を決定しました。再審開始の決定も、合理的で明解でした。「3月27日の地裁決定は、袴田さんが犯行時着ていたとされる『5点の衣類』の血痕のDNA鑑定の結果から、これらは袴田さんのものでも犯行時の着衣でもない可能性が十分あると認定。『捜査機関(警察)が重要な証言を捏造した疑いがある』と指摘した」(4月1日、朝日新聞)。「こがね味噌事件」の袴田巌の場合、再審開始決定の裁判の「血痕DNA型鑑定」などとは別に、早くから証拠とされる着衣、当の被告人が着用できないなどのことが明らかであったにもかかわらず、それら衣服が証拠になって、死刑が確定しました。
 甲山学園事件の場合も、こがね味噌事件の場合も、裁判が長くかかったり、死刑が確定したりした場合の一番の要因は、被告人の「自白」です。自白があって、犯人と断定した上で証拠(らしいもの!)を示せば、裁判官はほぼそれに基づいた判決を下すのです。甲山学園事件の場合も、「自白しているのだから!」が要因となった“犯人視”が一人歩きし続けますが、例外的に証拠の不合理を理由に一審は無罪判決でした。しかし、控訴・差し戻しなどが繰り返され、完全無罪になるまで、20年以上かかりました。「こがね味噌事件」の袴田巌は、死刑確定から48年、再審開始決定で、拘留も停止になるという、これも明解な決定でしたが、検察が即時抗告してしまいます。
 犯罪は、中でも犯罪者や家族にとって、残酷で耐え難い現実を突きつけることになります。残酷で耐え難いのは、何一つ“謂れ”がないにもかかわらず、失って取り返すことができない現実の前に立たされることです。当然、被害者から加害者に対する追及は厳しくなります。古代社会は、加害者に対して、厳罰を持ってのぞみました。「あわれんではならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足をもって償わせなければならない」。一方で「どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない…」と、不正、とが、罪を償わせることと同様、裁くことにおいて公正であるべきことを求めました。
 「罪を憎んで人を憎まず」や「疑わしきは罰せず」などのことは、不正、とが、罪の償いの裁きにあたり、社会はその歴史的な歩みの中で暗黙のうちに了解してきました。
 日本社会は、過去10〜20年の歩みの中で、不正、とが、罪、中でも“殺人事件”について、より厳罰を選ぶ方に向いてきました。寛容でなくなった社会で起こっている事件に、同じように社会が寛容でなくなってしまっている結果の厳罰であるのがその理由であるように思えます。社会全体が、起こってしまう人間の不正、とが、罪に対して寛容ではなくなって、結果、何よりも厳罰を望む声が優先する、ないしは優先することを選ぶのです。「罪を憎んで人を憎まず」とか「疑わしきは罰せず」などの、人間社会と歴史が培ってきた英知が、完全にふっとんでしまっているのが、昨今の日本社会のように思えます。とは言うものの、日本社会とその歴史は「罪を憎んで人を憎まず」や「疑わしきは罰せず」などの英知で、人間社会を見つめ、育んできたのも確かです。そうして育んできたものを崩すのはあっという間でも、育てるのは時間がかかります。広く日本社会を見つめる世界の目が、厳罰を選ぶことを望んでいるとは思えません。たくさんの努力で、広く国際社会から尊敬される日本人や日本社会が、厳罰を選び続けることで、尊敬されるとも思えません。

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