約3年ぶりに“同居者”が戻って、「共生」を始めています。とはいっても共生相手はカメです。千葉にいた時に我が家にやってきた小さなミドリガメは、今ではすっかり貫禄のある体長16㎝の立派なイシガメになっていました。何度となく脱走を企て、その度に埃を装飾して見つかったものです。カメだけではなく、他種を家族として引き受けた時から「共生」が始まります。ペットを飼うということはお互いに利益関係がないと本来の共生の意味が失われてしまいます。
人は一人では生きていくことができません。地球上の生物はすべて相互に影響を受けながら生きています。2種類以上の生物が共生をするとき、そこにはたとえば捕食関係、競争関係、寄生関係、共生関係が生じていきます。
「共生」は地球上に住む人を含む様々な生物が関係を持ちながら、互いに絶滅することなく生きていくことから、共生という言葉には2つの意味が読み取れます。一つは違う種類が同じところに住むということです。もう一つはある種が他種の利益をもたらすか損害をもたらすかです。ペットを飼うのは一方は癒され、励まされ、慰められる。もう一方は糧を得る。同じ空間で生きていく為に時には嫌なことも、自分の意に沿わないことも含めて受け入れていくことが問われていると言えます。
人同士でも共生を謳う時、最近では「多文化共生」という言葉が一人歩きしているとも言われています。同じような意味では「地球共生」という言葉もあるようです。もはや国籍や民族にとらわれない無数の文化を認めていく社会のことだそうです。国際的な話だけではなく、もっと身近なところでは、「地域」があげられています。しかしその地域の中で現実では「隣人を知らない」人が圧倒的に多いのが今の社会です。簡単に言えば会釈だけで済ませる社会となってしまっています。それは決してコミュニケーション不足で済ませるものではありません。
4月の入社式前の社員研修の中で、研修リーダーとなる「教育係」が最初に伝えることの8割が「あいさつ(オアシス)」なのだそうです。あいさつには相手に近づき心を開くという意味があるとのことです。それは相手からされることを待つことよりも、自分の方から近づいていくこと、行動を起こすことを意味します。
そういえば聖書の中でイエスがあいさつする箇所で有名なのは「…戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた。」(ヨハネ福音書20章26節)で使われている「安かれ」はヘブライ語でシャローム(アラビア語ではサラーム)という言葉です。シャロームは日常あいさつとして普通に使われます。3月27日に旧後川小学校をメイン会場にして行われた「子ども夢セミナー」で、最後に「にしきたずっと節」を踊った後に、みんなで握手をしながら「シャローム」の言葉をかけあっていました。シャロームと言いながら握手をする経験は会津にある若松栄町教会や在日大韓基督教名古屋教会が礼拝中にあって驚きつつ・照れつつも何人も握手を交わしたことを思い出します。
千葉にいた時も小牧にいた時もそうですが、地域ではあいさつを交わすのは大切です。そして挨拶の重要さを特に感じたのは東北へ2年間派遣させてもらった時です。全く知らない人に声をかける時に、単刀直入に本題から入ることはできません。また相手から話しかけてもらうまでじっと待っているのもおかしな話です。「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」…最初のあいさつから始まって、日に日に顔を合わせてあいさつを重ねていく。身近に感じてくれるようになれば、会話も少しずつ広がりを持っていきます。その頃には「まいどです」「こんちは」「おう」「よう」と親しい関係でのあいさつも通わせることが出来ます。たった一言のあいさつではありますが、そのあいさつから積み重ねていくことが地域で共に生きていくことになっていくのです。
たかがあいさつ、されどあいさつです。コミュニケーションのきっかけとして自分の方から心を開くあいさつを通わせることのできることが「顔の見える関係・地域共生」の第一歩となると思います。
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