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小さな手大きな手

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2014年06月01週
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 幼稚園の先生の研修や、教会学校のキャンプなどで、自然観察の教えを請う“師匠”は菅井啓之さんです。この“師匠”は、身近な言葉で観察の極意を語れる人です。 “師匠”が最近出版した小さな書物で語っている自然観察の極意の言葉が、「『しみじみと見る』ということ」です(「理科・生活科/美しい心を育む自然観察『観察ってどうすればいいの?』」、菅井啓之、後藤紗貴、文溪堂)。極意は「自然との本当の出会いを創るためには、自然としみじみと触れることが大切だ。じっくり深く自然と触れた時、自然からおのずと感化され自分が変わっていくのが感じられる。そのような創造的な出会いをするためには、是非とも『しみじみと見る』ことから始めなければならない」で始まり、その場合の「…どうすれば」は以下のように語られています。「では『しみじみと見る』とはどうすることか。ただ長い時間接すれば良いというものではない。その質が重要なのだ。そもそも『しみじみ』とは『沁み沁み』であり、水に紙を浸すと紙の繊維の隅々にまで水が沁み渡るように、細部まで余すところなく行き渡ることを言う。自然に接した時、細心の注意を傾けて、細部の隅々に至るまで丁寧に見極めていく姿勢である。しかも細部にだけとらわれることなく、全体を見据えて、部分を全体の中でとらえることである」。
 と語る“師匠”が前掲の書物の中でも書き、教えてもらった観察で見つかるモノが「微小貝」や「チャート」です。ただ砂浜で見つめるだけだったら、せいぜい小さな貝の混ざった砂粒の集まりが「しみじみと見る」時に、極小の貝、微小貝との出会いになります。それが「しみじみと見る」結果である時の驚きや喜びは格別です。微小貝の発見はもちろんのこと、「しみじみと見る」時、どれ一つ同じものがない砂粒の一粒一粒も、身近なかけがえのない存在に思えてくるのです。以前 “師匠”にもらった、微小貝をはりつけたカードには、隅っこの小さいワクに、米粒と微小貝が小さく並び、「この世界は小さなものが支えている」と自筆されていました。そのカードは、宝物の一つになっています。
 最近、自然観察の“師匠”菅井啓之さんと、その自然や人間理解が根っこのところでつながっているように思える言葉に出会いました。
 「…他方、被告は本件原発の稼働が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものにかかわる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている。このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多数の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失と言うべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている」(「大飯原発3,4号機運転差止請求事件判決要旨」、2014年5月21日)。もし、「しみじみと見る」なら、この「国土」で生きて生活することは「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活することが国富」であり、それは「電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論」であり得ないはずです。前掲判決文要旨は、簡潔にさらっと語っているものの、その根底は、言うところの「国富」「豊かな国土」を、「自然に接した時に、細心の注意を傾けて、細部の隅々に至るまで丁寧に見極めていく姿勢」で貫かれています。「しみじみと見る」姿勢だからこそ書き得た(下し得た)判決なのです。それは、「…豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活している」人間理解においても一貫しています。「…ひとたび深刻な事故が起これば多くの人の声明、身体やその生活基盤に重大な被害を及ぼすことに関する細部には、その被害の大きさ、程度に応じた安全性と高度の信頼性が求められて然るべきである。このことは、当然の社会的要請であるとともに、生存を基礎とする人格権が公法、私法を問わず、すべて法分野において、最高の価値を持つとされる以上、本件訴訟においてもよって立つべき解釈上の指針である」(前掲、判決要旨)。「多くの人の生命、身体やその生活基盤に重大な被害を及ぼす事に関わる程度」及び「その被害の大きさ、程度に応じた安全性と高度の信頼性が求められて然るべき」は、この請求事件の被告の問題としてなく、被害の大きさ、程度の多少を問わず、影響を及ぼす位置・立場にあるすべての組織・個人(責任者)に、等しく向けられた問いであるように思えます。子どもに対する親であったり、生徒に対する教師であったり、その教師に対する管理者であったり、信徒に対する牧師であったり、他の誰よりもこの裁判の判事である自分に向けられた問いとして読めます。要するに人や事を裁く判事である前に、自分という一人の人間を「しみじみと見る」ことがあって初めて書き得た判決(判決要旨)なのです。もちろん判決(判決要旨)のその意味での人間理解も、簡潔でかつ明解です。「生存を基礎とする人格権が、公法・私法を問わず、すべての法分野において、最高の価値を持つ」(前掲、判決要旨)。
 日本国憲法の、人権(人格権)についての考え方に影響を与えたのは、連合軍総司令部の日本国憲法草案小委員会で働いていた、ベアテ・シロタだと言われています(「ベアテ・シロタと日本国憲法」、岩波ブックレット)。ベアテ・シロタが当初考えていた「all natural persons」(すべて人間として生まれたものは)という人権理解は、そのままでは受け入れられませんでしたが、憲法13条、25条にはその考え方が反映されています(「グラウンド・ゼロからの出発」鶴見俊介、ダグラス・ラミス・光文社)。前掲判決要旨の「生存を基礎とする人格権」は、表現は異なるものの、考え方はベアテ・シロタが日本国憲法草案小委員会で提案していた人間理解「すべて人間として生まれたものは」が根底に据えられていると言えます。子どもであれ、高齢者であれ、障害、人種、性別はもちろん、性的指向などを問わず、その人のこの世界での存在が、他の何よりも尊重される人間理解なのです。それを何一つ留保なしに当然にあるべきこととして宣言する判決(判決要旨)です。

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