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2014年06月05週
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「H教会Y牧師就任式での挨拶」
 数年前、亡くなった多田富雄の創作能「沖縄残月記」を見る機会がありました。能は、それが初めてです。他に多田富雄は「原爆忌」「長崎の聖母」などの能を書いています。多田富雄にとって、広島や長崎の原爆、沖縄の戦が能による表現であるのは、「お能とは異界からの使者たちが現れる場である」という、悲惨な死が能本来の表現で可能だと理解されているからです(「能の見える風景」多田富雄、藤原書店)。広島や長崎の原爆、沖縄の戦争の悲惨さに肉迫する強い意志で、能に託したのです。能の作品として生み出すことも、表現として演じる(じられる)ことも至難の業であることを承知の上で選ばれた表現(手段)でした。「今でも私たちが能楽堂に足を運ぶ理由は、このような異界からの使者たちに出会うためではないだろうか。私たちは中世とは違って、科学が支配する時代に生きている。しかし、私たちにとって異界の話は決して虚言ではない。というよりも、科学を超えたものの存在を心の片隅で信じようとし、その現れを求めているのだ」(前掲、「能の見える風景」)。
 その能のことで世阿弥が生み出したのが「初心不可忘/初心忘るべからず」です。
 
しかれば、当流に、万能一徳の一句あり。
  初心不可忘。
 この句、三箇条の口伝あり。
  是非初心不可忘。
  時々初心不可忘。
  老後初心不可忘。
  (「花鏡/かきょう」世阿弥、あすなろ書房)。
 
別に世阿弥は初心について「…たとひ、人も褒め、名人などに勝つとも、これは一見めずらしき花なりと思ひ悟りて、いよいよ物まねをも直々にし定め、名を得たらん人に事を細かく問ひて、稽古をいや増しにすべし。されば、時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心をに。ただ、人ごとに、この時分の花を迷ひて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すはこの頃の事なり」とも書いています(「風姿花伝・三道」角川書店)。自ら、悲惨を背負って「異界」に旅立ったのが、広島や長崎の原爆、沖縄の戦争の死者たちです。生者には決して踏み込めない世界を、能は「異界」からの使者たちによって演じようとします。いいえ、それを能の舞台で実現させるのです。多田富雄によれば「お能とは異界からの使者たちが現れる場である」となります。
 と、理解されている能の、世阿弥の「初心忘るべからず」を、牧師就任式の式辞で司式者が話された見識は評価させていただきつつ、ここに実現している就任式と、世阿弥の「初心忘るべからず」との異和感を指摘することで「挨拶」に代えさせていただきます。就任式の「献歌」の一節「王なるイエスはあなたの祈りを聞いておられる」で「王なるイエス」は、十字架で処刑され「異界」へと旅立った人物です。その人物のことを、もし「王なるイエスは あなたの祈りを聞いておられる」と何の驚きや恐れもなく歌ってしまう時、その人が(イエスが)十字架で処刑され「異界」へ旅立った事実は消し去られてしまうことにならないでしょうか。イエスが生きていた時代のパレスチナは、ローマの植民地でした。ご存知のように、ルカによる福音書はそんな時代、そんな社会の現実を「ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」「ところがラザロという貧乏人が全身できものでおおわれて、この金持の玄関の前にすわり」と書き残し、後者ラザロが「アブラハムのふところに送られ」と、植民地支配の分断と固定の逆転を口にしてはばからないイエスを伝えています(16章19〜31節)。
 強大で圧倒的な植民地支配のローマ帝国の正真正銘の王は、誰か別に王なるものが存在することは決して許されなかったし、なのに「王なるイエス」であった時に下されたのが十字架刑でした。そうして処刑され、「異界」へ旅立つ、ないしは送られたイエスが「王なるイエス」だとしたら、それを「あなたの祈りを聞いておられる」人の祈りは、イエスの極刑の事実と限りなく交差するものでなくてはならないはずです。王なるものとは、決して相容れない、人として生きる世界の分断、固定化に対して決して沈黙することはしなかった、例えば、前掲のルカによる福音書の場合のように生きたのがイエスだったからです。世阿弥が能をめぐって、「初心忘るべからず」と書く時、たとえば「異界からの使者」を描くことも、演ずることも、並大抵ではあり得ないことの強い自覚がありました。広島や長崎の原爆、熱核兵器で一瞬にして「異界」へ送られた人たち、骨肉親の集団自決へと追いつめられた沖縄戦の無残、悲惨を、能の舞台で実現することの困難を、たとえば「花鏡」で「初心忘るべからず」と書く世阿弥が知らない訳ではありません。「初心」は、一回一回の舞台でその困難さと立ち向かう覚悟として語られているはずです。「この頃の花こそ初心と申す頃なるを、極めたるように主の思ひて、はや申楽(さるがく)にそばみたたる輪説をし、至りたる風体をする事、あさましき事なり」(前掲「風姿花伝・三道」)。
 式辞の「初心忘るべからず」の「見識」に、誘われるようにして、長々と挨拶をさせていただくことになりましたが、十字架処刑され、「異界」へと旅立った人物イエスについて、正真正銘証言するH教会の歩みを願ってやみません。
 (6月22日就任式当日、「挨拶」の順番も予定もありませんでしたので、心の思いを文章にすることになりました)。 


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