「ひみつの王国、評伝石井桃子」(尾崎真理子、新潮社)を読みはじめています。101歳まで生きて仕事をし続けた人の評伝を書くのは、とっても大変なことのように思えます。生きて仕事をし続けた石井桃子が、「クマのプーさん」の著者、「ミルン自伝、今からでは遅すぎる」の翻訳を始めたのが90歳の1997年、発行は2003年です。「なぜ私が、90歳という、自分自身でもびっくりするような年齢に達してから『クマのプーさん』の作者、A.A.ミルンの自伝を訳そうと思い立ったのか、その理由は、私にもはっきり説明することができません。ただ私は、まだ若かった日、全く偶然『クマのプーさん』というイギリスの子どもの本に出会い、魔法にかけられたとしか言いようのない経験をして以来、ミルンという人は、人生途上でどのような状態にあった時、他人を魔法にかけるような作品を書けたのだろうかということを、折にふれて考えてみないではいられませんでした…」。ともかく、90歳から始め、6年の歳月をかけ、およそ550頁のミルン自伝の翻訳・発行を成し遂げます。そんな「巨人」の、評伝をどうして書き得たのか、読み始めて気付いたのは、石井桃子の書き残したものを直接克明に目を通すことと直接の取材、その時々に出会って生きてきた人たちの書き残したもの、時代の証言にも直接あたり、存分にかつ的確にその人たちに語らせることで評伝を成り立たせたからであるように思えます。その一つが、幼い頃の石井桃子が、「祖父のあぐらの中に座って」聞いた昔話のことで語る文章です。「…昔話を聞くのが楽しみだった。『かちかち山』や『さるかに合戦』などさまざま。/ああいう話は、子どもに残酷か。いま大人として振り返って考えてみると、残酷と思えなくもない。けれど、あぐらの中でそれを聞いた幼児の感覚に、残酷さなど、みじんもなかった。私の心にあったのは、興奮であり、躁状態であった。私は両手を打って、祖父の話や歌に唱和した。/あの時、私は、あの興奮の中で、自分の心に潜在する残酷さを、一皮、一皮むきすてていったような気がしてならない」(前掲、「ひみつの王国/評伝石井桃子」)。
国際アンデルセン賞の、上橋菜穂子の作品を大急ぎで読みました。おもしろくって、読みごたえがあって読めたように思えます。その「読みごたえ」については、作者があとがきで書いていることに尽きるように思えます。「人類の歴史の中で、唖然とするほどの大虐殺の悲劇を生み出してきたのは、悪意というよりはむしろ、ひとつの視点に固着した思想や意識であったと思うからです。それでも悲しいことに、人は真に複眼的な視点をもつことは、なかなかできず、多くの道が見えていても、進もうとするときは、一つの道を選ばざるをえません。チャグムの選択は、まだ青い、少年の思いが選ばせた道でした。彼の、その青い思いを、大人たちはどう支え、あるいはどう潰していくのか…」(「蒼路の旅人」上橋菜穂子、文庫版あとがき)。物語は、それぞれの状況で呑み込まれながら「支えられ」「潰されたり」しつつ、自分をもう一度、もう一度と取り戻して行く登場人物たちを描きます。全く屈服してしまうことも、支配者に成り済ますことも、平気で命を奪い命を奪われることも拒み、只中に身を置いて、なんとか生きのびる道を見つけ出して行く人たちです。主人公の一人が女用心棒バルサです。命を預かり命をかけ、その命を守ることが生業である用心棒であったとしても、そうして生きるすべてを肯定できないのがバルサです。「人は真に複眼的な視点をもつことは、なかなかできず、多くの道が見えていても、進もうとする時は一つの道を選ばざるをえません」という難しさに挑み続けるのが、上橋菜穂子の描く物語の登場人物です。
7月26日に、長崎県佐世保市で起こった事件で、当事者の少女は「『人を殺したいという欲求が中学生のころからあった』という趣旨の説明」をしているそうです。また「少女は過去に何度もネコなどを解剖していたことを認め、『そのうち人を解剖したいと思うようになった』と話しており」「『遺体をバラバラにしてみたかった』という趣旨の話」もしているそうです。で「県警は詳しい動機や精神状態の解明を急いでいる」のだそうです(7月31日、朝日新聞)。
絵本の「かちかち山」(おざわとしお再話、赤羽末吉画)は残酷です。中でも、たぬきに殺されたばあさまの「たぬきじる(実はばあじる!)」を食わされたことを語る時の昔話「かちかち山」は残酷です。
「というので、じいさまは、たぬきといっしょに、たぬきじるを すっかり たべてしまいました。たべおわったとたん、たぬきは とぐちのところへ かけていって、『ばあじる くったし、あわもち くった。ながしのしたの ほねを みろ』と さけぶと、もとの たぬきのすがたになって、やまへ にげていきました。じいさまは くやしくて くやしくて、おいおい なきだしました」。
「たぬきじる」を食うという昔話の残酷を、幼かった石井桃子は祖父のあぐらの中に座って聞きました。その時の自分を「あぐらの中でそれを聞いた幼児の感覚には、残酷さなどは、みじんもなかった。私の心にあったのは、興奮であり、躁状態であった。私は両手を打って、祖父の話や歌を唱和した」と書き、更に「あの時、私は、あの興奮の中で、自分の心に潜在する残酷さを、一皮、一皮ぬぎすてていったような気がしてならないのである」とも書きます。「あの時、私は」「自分の心に潜在する残酷さ」に気が付いていませんでした。昔話の「かちかち山」の残酷に出会う時、子どもたちの「自分の心に潜在する残酷」に届き、意識はしなかったにせよ掘り起こし、「残酷さなどはみじんもなく」子どもたちは話や歌に唱和します。
新聞の「趣旨の説明」は、「少女」が「過去に何度もネコなどを解剖していた」と伝えています。子どもの頃の田舎の生活で、ほんの1、2時間前まで走り回っていたニワトリの首が切られ、囲炉裏端で父親が解体する一部始終を、子どもたちは舌なめずりしながら見つめていました。残酷でしたが、そこで見つめられていたのは、血の通う生きもののもう一つの姿でした。隔たりはありましたが、同じ時、同じ空気をすった、言わば「仲間」の解体であったように思えます。だから、人間を解体したい、遺体をバラバラにしたいなどという思いにつながったりはしませんでした。起こっていたとすれば「自分の心に潜在する残酷さを、一皮、一皮ぬぎさっていた」そんな体験だったに違いありません。「少女」のネコの解剖は、「人間を解剖したい」そして「遺体をバラバラにしてみたかった」に直結してしまいました。何が、そうしてしまったのか。もし、何かがある、ないしは欠けているものがあったとすれば、父親がニワトリを解体(解剖!)する一部始終を子どもたちが見つめていた血の通う生きものとの出会いであり、「…興奮であり、躁状態であった。私は両手を打って、祖父の話や歌に唱和した」昔話を、「祖父のあぐらの中」で聞いた時間であったように思えます。
だとすれば、「少女」だけでなく、今を生きる「少年、少女」たちが、「真に複眼的視点」から遠ざけられ、かつ最初から最後まで一つの道を強いられて生きる時、ネコの解剖が「人を解剖したい」や「遺体をバラバラにしてみたかった」に直結することがあり得ないとは言えなくなるように思えてなりません。
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