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小さな手大きな手

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2014年09月01週
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今年の「第60回青少年読書感想文全国コンクール課題図書」ということで、書店のコーナーに積み上げられていた一冊が「ひまわり」(荒井真紀 文・絵、金の星社)でした。表紙のひまわりの見事さに、思わず手にして購入することになりました。表紙を開いた見開きに、数えきれないひまわりが描かれているのも見事でした。ひまわりについての、いくつかの疑問も、この「ひまわり」で教えてもらうことになりました。
1.ひまわりが「向日」であるのは太陽を追いかけて向きを変えるからです。「ひまわりの くきは、たいようを おいかけて むきを かえます。こうして たいようの ひかりを はに いっぱい うけて、おおきくなるための えいようをつくるのです」「はなが さくころには くきは うごかなくなります」。
2.「はなは、いったい どんな つくりを しているのでしょう」。ひまわりは、花の周囲の大きな花の集まりと、内側の小さな花が集まってできているのです。「そとがわの おおきな はなが ひらきおわるころ、うちがわの ちいさな はなが ひらきはじめます」「そとから なかへ むかって、じゅんばんに ひらいていきます」。
3.ひまわりの大きな花も小さな花も、すべて種になります。花はみどり色に変わり、それが落ちると、種が姿をあらわします。「いっぽんの ひまわりから、おおきいものだと、2000こいじょうの たねが とれます」。
という、ひまわりの大きな花の一つ一つ、小さな花の一つ一つ、種の一粒一粒も余すところなく、すべてをそのまま克明に描いているのが「ひまわり」です。毎年ひまわりの成長の早さに驚かされますが、「そらに むかって ぐんぐん のびていきます」という見開きのページも見事で、つぼみが、はじけるようにふくらんでいく様子も、いつも見ているひまわりそのもののように力強く見事に描かれています。そんな「ひまわり」を描く著者が、あとがきで「16歳の時より、熊田千佳暮氏に師事」と書いてあるのを見て、その絵に納得しました。2、3年前、伊丹市立美術館で「熊田千佳暮展」が開催されていて、年長の子どもたちと出かけました。ファーブルの昆虫記が題材になった、一枚一枚の克明な昆虫の絵は、草木とその花も克明に描かれていました。更に、昆虫と草木と花が生きる大地も、ただ背景としてではなくそこが生きものたちが生きて物語が生まれる大地として描くのが、熊田千佳暮の一枚一枚の絵であったように思えました。
 もうすぐ、ひがんばなが咲き始めます。もう咲いていたという情報も聞こえてきます。幼稚園の伏原町の畑では、毎年1000本を超えるひがんばなが咲きます。以前、その場所のひがんばなはいっせいに咲いていました。何年か前からひがんばなは、少し時間差があって咲くようになりました(そんな風に見えます)。絵本「ひがんばな」(甲斐信枝 さく、福音館書店)で、ひがんばなに一層関心を持つようになって、ひがんばなが大好きになりました。どんな花もそうですが、たとえちっちゃなのじぎくの花でも、よくよく見つめてみると、その一本の一輪に存在感があります。きっとどんな自然の条件の中でも耐えて生きてきた誇りが、存在感になっているのだと思います。「ひがんばな」の最初に登場するのは、ページいっぱいに描かれた一本の一輪のひがんばなです。一旦芽を出した後のひがんばなの成長は早く、一日に10センチくらい伸びることもあります。薄い緑の茎の先がふくらんで、薄い緑のふくらみが5つぐらいに分かれ、次の日には、花びら、おしべ、めしべが、それぞれに弧を描いて伸び、大きな一輪の真っ赤な花になります。どんな花も、咲き終わった時の姿は無残に見えます。咲き終わって無残な姿の後に、気が付いてみると、地面からそのままするどくとがった葉っぱを伸ばすのもひがんばなです。いいえ、伸び始めた葉っぱの地面の下では、葉っぱが伸びるのと競い合うようにして、太陽の光を受けた葉っぱが届ける栄養で球根が育っているのです。「ひがんばな」はいっぱいひがんばなを知る手がかりになりますが、それが一冊のひがんばなの生きた物語として描かれているところが、魅力になっています。たとえば、球根が「おしながされ」「すてられ」ても、ひがんばなは、生き延びようとします。「きゅうこんは おおみずに おしながされても、にんげんに ほりすてられても、じりじりと つちのなかに ねっこを おろします」「ながく のびた ねっこは ぎゅっと ちぢんで きゅうこんを つちのなかへ ひっぱりこみます」「じりじり じりじり ねっこは きゅうこんを ひっぱりつづけ、1ねんも 2ねんも かかって つちのなかに ひきずりこんでしまいます」。
 「ひまわり」は、克明に、そして躍動するひまわりの姿が描かれますが、何か一つ物足りないのは、大地と他の生きものたちの生命の営み、それ自身の生命の営みが描かれていないからかもしれません。「ひまわり」は、一本の一輪のひまわりを克明に完全に描かれています。しかし、どんな生きものであっても、たとえば人間であるからこそ「人が生長していく時にかかえる根本的な問題は、見えない形で存在すると私は考えています」(「トーク・トーク、カニグスバーグ講演集」清水真砂子 訳、岩波書店)と書く、見えない生命の営みが切り離され、「ひまわり」は結果的には一本の一輪のひまわりの部分を描くことになってしまったからのようにも思えます。しかし、人間の手を借りるひまわりであっても、自然の残酷な仕打ちや、必ず誇りを持って生命の営みを生きている、新しい生命の始まりなどが、描き切れなかったということかもしれません。甲斐信枝さんの「たんぽぽ」(金の星社)では、生命の終わりと始まりが描かれてます。「わたげたちは とんでいって しまった。なんびゃく なんぜんの こどもたちを、こころを こめて みおくった たんぽぽ。しごとを おわった くきは しずかに たおれて かれていく。しばらくすると、たんぽぽの あたらしい しごとに とりかかる」。 
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