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小さな手大きな手

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2014年09月03週
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 毎月、第1、3水曜日は、ずいぶん前から教会の定例の集まり、聖書研究祈祷会となっています。現在は、「詩篇の思想と信仰」(月本昭男)、「詩篇」(勝村弘也)を手がかりに、旧約聖書の詩篇を読んでいます。9月17日に読んだのは、詩篇44篇1〜26節でした。
 1〜7節は「神よ、いにしえ、われらの先祖たちの日に…」で始まり、古い古い時代の「いにしえ」に、神に基(もとい)をすえられたこと、そのことへの感謝の言葉が並べられます。
 ところが、8〜16節はその神が、謂れのない試練をわれら(たみ)に与え苦難の中であえいで、われらが生きることになる事実が繰り返し語られます。17〜26節は、にもかかわらず、神のもとで生きる葛藤、けれども決してそこから目をそらすことのない人たちの叫びが、ほとばしり出る言葉となって、44篇がしめくくりられます。
 まことにわれらの魂はかがんで、ちりに伏し、
 われらのからだは土につきました、
 起きて、われらをお助けください。
 あなたのいつくしみのゆえに、
 われらをあがなってください。
 (25、26節)
 「われら」と言われているこの人たち(民)は、自分たちの必要な時に必要に応じて応えるのが神であるとは理解していません。「彼らは自分のつるぎによって国を獲たのでなく、また自分の腕によって勝利を得たのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたのみ顔の光によるのでした。あなたが彼らを恵まれたからです。あなたはわが王、わが神、ヤコブのために勝利を定められる方です」(3、4節)。「わたしは自分の弓を頼まず、わたしのつるぎもまた、わたしを救うことができないからです。しかしあなたはわれらをあだから救い、われらを憎む者をはずかしめられました。われらは常に神によって誇り、とこしえにあなたのみ名に感謝するでしょう」(7、8節)。ここで、「感謝」している神は、詩篇の詩い手たちのその働きに都合よく応答する神ではありません。同時に「わたしは自分の弓を頼らず、わたしのつるぎもまた、わたしを救うことができない」ことを知る人たちでもあります。歴史・状況の中に身を置いて、いさぎよく生き方とは何かを知る人たちなのです。ですから、「しかしあなたはわれらをあだから救い、われらを憎む者をはずかしめられもした」は、人間を知り、神を知る者の神理解として詩われます。願ったから、だから応える神ではなく、神がよしとするものがそこにあったから、神は応えたのです。それが、詩篇の詩い手の神理解です。
 ところが、と言うか当然この神は、詩い手たちの願いを、たやすく踏みにじります。「ところがあなたはわれらを捨てて恥を負わせ、われらの軍勢と共に出て行かれませんでした」(9節)。詩い手たちの(人間の)必要な時に必要に応じて応える神ではないのです。この9節以下の、詩篇の詩い手たちがこうむっている、惨憺たる状況が、いつの時代のどんな状況であるかはこれだけの情報では特定できないのでしょうが、大きく生死にかかわる、生存を根底からおびやかさずには置かない出来事・状況であるのは間違いありません。ところが、「ところがあなたはわれらを捨てて恥を負わせ」、「あなたはわれらをほふられる羊のようにし、またもろもろの国民のなかに散らされました。あなたはわずかな金であなたの民を売り、彼らのために高い価を求められませんでした」と「民を売り」ます(9、11、12節)。まさか、神がその民を「金」で売ったりするはずはありませんから、差し迫った状況の中で、何一つ助けてはもらえなかったことへの呪詛がこんな言葉になりました。わたし(民)の必要な時に必要に応じて応える便利な神ではないのです。そうして、呪詛の言葉を口にしますが、そして必要な時に必要に応じて応える神ではありませんが、だからと言ってわたし(民)が神から離れるということはしません。「これらの事が皆われらに臨みましたが、われらはあなたを忘れず、あなたの契約にそむくことがありませんでした」(17節)。「散らされ」「そしられ」「侮らせ」「あざけらせ」「笑い草とし」「はずかしめ」「恥」「そしる」「ののしる」などのことが「敵と、恨みを報いる者」から投げかけられる、そんな惨澹たる状況に置かれてもなお、「わたし」(民)は「あなたを忘れず、あなたの契約にそむくことはありませんでした」と明言します。私の必要な時に私の必要に応じて応えてくれる神ではないことを、言わば承知の上でなのです。なのに詩人は「われらの心はたじろがず、またわれらの歩みはあなたの道を離れません」(18節)と断言します。と断言できるほど、このわたし(民)にとって、揺らぐことのない絶対の神であるからです。「われらががもしわれらの神の名を忘れ、ほかの神に手を伸べたことがあったならば、神はこれを見あらわされないでしょうか。神は心の秘密をも知っておられるからです」。この詩人の言葉は「神は心の秘密を知っておられるから」、だから「神の名を忘れない」であったりはしません。わたし(民)は、神の名を忘れないのです。だから、神に心の中を覗かれたとしても、この神の名以外わたし(民)の中には見つかりはしないのです。依存する神ではなく、しかし厳然としてそこにいる神なのです。
 ところが、再度、再々度、その神はわたし(民)を惨澹たる状況の渦中に投げ出します。「ところがわれらはあなたのためにひねもす殺されて、ほふられる羊のようにみなされました」(22節)。
 ところが、わたし(民)も決してひるんだりしませんし、神から離れるということもしません。「主よ、起きてください。なぜ眠っておられるのですか。…」(23節)。「まことにわれらの魂はかがんで、ちりに伏し、われらのからだは土につきました。起きて、われらをお助けください。あなたのいつくしみのゆえに、われらをあがなってください」(25、26節)。惨澹たる状況の渦中に陥れられ、たとえ「ちりに伏す」としても、決して卑屈にではなく、真正面から神を見据えるわたし(民)なのです。もちろん、その時の神は、わたし(民)を見据えています。この時の神は、そのまま現実に置き換えることができます。
 西宮公同教会の聖研祈祷会は、ちっちゃな集まりですが、たまに、詩篇44篇のような、真剣勝負で神と出会った人たちの「詩」に出会って、得をすることもあります。
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