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2015年04月02週
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 統一地方議会選挙が始まった4月3日の、富山県議会議員選挙の告示日の「出陣式」に居合わせることになりました。兄の出陣式です。選挙が、とことん形振り構わない様相を呈するものであることを、高校生の頃にまじかに見ることになりました。それは母方の祖父が「出馬」した地元の市長選挙でのことでした。選挙運動中の祖父は、トラックの荷台で土下座する格好で、まさしく「土下座してお願いします」と訴えているのを見かけた時のことです。悲しくて、恥ずかしくて、その時のその思いをすぐに手紙に書いて祖父に届けましたが、返事はありませんでした。
 富山県議会議員選挙に兄が出馬することになったのは、35,6年くらい前のことです。それが不自然で我慢できなかったのは、その時の所属政党が、当時の社会党だったことです。祖父は当時結成された民主党から国会議員選挙に立候補して落選し、その後もう一度市長になったりしましたから、政治が好きだったのだと思います。学校の教師だった父は、選挙、そして政治権力の、権力の力の何たるか(地元への利益誘導)に働く議員の力に強い関心があり、ずっと自民党の支持者であり、その立場は地元では周知のことでした。
 そんな父たちの、地元の政治の世界で、息子・兄が対向勢力としての社会党で立候補することになったのですから、地域社会、親戚などは当然大騒ぎになりました。田舎で政治、中でも選挙は西宮などよりはるかにリアルな形で戦われます。どちらの立場で、誰を応援するのか、一人一人が旗色を鮮明にすることを求められるし、鮮明になってしまうのです。更に、父たちの選択がそうであったように、保守・自民党が圧倒的に強いのが田舎の地域社会でした。
 その田舎の、父たちも立場を鮮明にしている、保守・自民党が優勢であることが明らかな世界で、兄は社会党の立候補者として出馬したのです。それには社会党でありながら、父たちや祖父の田舎での知名度に乗っかるという計算がありました。結果、父や母はもちろん、姉、そして親戚などは、その選挙に巻き込まれることになります。一票の差でも、落選は敗北である選挙の非情の現実に、終盤になると西宮に住む弟にまで、「助けて欲しい!」という悲鳴が聞こえてきたりしました。
 そんな最初の選挙の後、たまたま帰った田舎の家で、兄の選挙のリーフレットを見る機会がありました。リーフレットの一面には、兄家族、そして両親が仲睦まじく写真に納まっていました。それは選挙というものが、厚かましくて形振り構わず非情であることを、まざまざと見せつける写真であったように思えます。そんな兄の選挙は、一度も手助けしたことはありませんが、両親たちにとって自分の子どもの選挙に巻き込まれざるを得なかったであろう現実に、少しばかり気配りはしてきました。中でも、田舎の小さな世界で、気丈に自分の世界を築き守ってきた母は、親戚との間で起こってしまう軋轢に身も心もすりへらしていました。また、息子のことで、たくさんの人たちに世話になったとしても、決してそれを返せないのも重圧になっていました。そんな風にして母を追い込むことになってしまう現実をかいま見る度に怒りで心が騒ぐのでした。
 こんな田舎の選挙の騒動がピークに達したのが、同じ選挙区で、兄と母方の従兄弟が富山県議会議員選挙を争うことになった時でした。母たちが大切にしてきた、幼い頃からの親戚のつながりが、その時に二分され、母が亡くなる時まで、その状態は続くことになりました。
 そんな兄の、10度目の選挙の「出陣式」に初めて居合わせることになりました。この国で、政治的選択の選挙とはそもそも何なのかを、兄の選挙で少なからず確認するというのが、出かけることになった理由の一つです。「出陣式」のその場で、ひとこと言えたらの思いで準備したのが以下のメモです。もちろん、公の人である兄の殺気立った「出陣式」は、弟にそんなことが求められたり、許されたりする雰囲気ではありませんでした。

 1.18歳の時に、兵庫県西宮に出て52年間、たぶんそこで死ぬことになります。
 2.故郷を出た人間として、大切にしてきたことが2つあります。
 ①故郷一刎(ひとはね)と氷見を誇りに生きてきました。一刎の里山と氷見の海、そして育てていただいた人たちです。
 ②故郷を出た人間は、再び故郷の世話にはならないことです。
 3.10年前、2004年に母が亡くなりました。81歳でしたから、よく生きたのだと思います。気丈で頑丈な人でしたが、何度かわずらいました。たいがい兄の選挙の後だったと思います。
 4.母が亡くなった時、家族の了解を得て、短い挨拶文を書きました。

花を育てることが 好きな人でした
 念仏を唱えることが 好きな人でした
 惜しまず働くことが 好きな人でした
 田んぼが、畑が、里山が 好きな人でした
 幼いものを抱き育むのが 好きな人でした
 生きて耐えて先に逝ってしまったことを御報告申し上げます
        菅沢としこ 2004年3月10日永眠 81歳
 
5.選挙の応援にきた訳ではありません。姉も亡くなって、父も亡くなって、残された家族として「見届ける」つもりでやってきました。
 6.一刎の里山と氷見の海、そして育てていただいた人たちを誇りに生きてきました。残りの人生も、一刎の里山と氷見の海と育てていただいた人たちを誇りに生きて行きます。
 政治・選挙というもので、こんな思いを託すに値する人間がそこにいるなら、政党・党派を問わず投票してもいいかなと思っています。



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