武藤 類子 様
3月29日に、京都でお会いして間もない4月3日の「2015年告訴」の不起訴処分は、何とか35人の人たちが、第2次告訴の告訴人に名を連ねて下さったのに残念です。
今、改めて、2013年9月9日、及び2015年1月22日に不起訴処分とした東京地検の処分理由の概要、そして2014年7月23日の検察審査会の議決書を読み直しています。
両者の違いは、共に認める被疑事実「-福島第一原発において炉心損傷等の重大事故を発生させ水素ガス爆発により、一部原子炉建屋を損壊させ、福島第一原発から大量の放射性物質を排出させて、多数の住民を被曝させると共に、現場作業員たちに傷害を負わせ、更に、周辺病院から避難した入院患者らを死亡させた」にもかかわらず、前者は機械的な法律上の過失論を述べることに終始し、処分は不起訴です。不起訴にする理由を、いかに構築するかが、処分理由そのものであるように読めます。東電福島の重大事故を究明し、裁かずにおかないという意志は、どんな意味でも、どこにも見当たらないと言えます。そこに、自らも認める被疑事実が横たわっているにもかかわらずです。
そうだとすれば、原子力発電所のこと、及びそこでのどんな事故であっても、検察がそれを事件として追求することを防げる別の力が働いているとしか考えられません。
他方、一般の人で構成される検察審査会の事故のとらえ方の基本は、人間の生きる社会のあるべき姿を見据えることです。それが議決書の「今回の福島第一原発の事故は、巨大な津波の発生が契機となったことは確かであるが、そもそも自然災害はいつ、どこで、どのような規模で発生するかを確実に予測できるものではない」だったりします。「予測できないから過失は認められない」ではなく、「予測できないからこそ、過失はあってはならない」のです。人間が「予測できない世界で生きている」のだとしたら、「過失」が取り返しのつかない事故になる、原子力発電所のような危ないものをそもそも稼働してはならないという謙虚さが求められるはずです。議決書は、謙虚でない人たちのことを「例えば、U、P、+15.7m という試算結果についても、単なる対処すべき数値として促され、生命や財産に対する現実のリスクであるという感覚が希薄になっている」と指摘しています。議決書には、生きた人間の感覚が息づいているのです。
そうした、当たり前の人間の感覚を、受け止めることも問うこともしない東京地検に対する(東電、国に対する)告訴には、もう一つ別の問いが必要なように思えてなりません。
沖縄の人たちが、オール沖縄でまとめ国に対して提出された「建白書」を読むことが直接のきっかけで、キャンプシュワブ前の辺野古新基地建設反対の座り込みに、少しだけ参加しています。そこに集まっている沖縄の人たちは、言葉を尽くすことにおいても、体を張ることにおいても、譲ることなく正々堂々とひるまず座り込みます。
そんな行動の、沖縄の人たちの魂として「建白書」に貫かれるのが「人間の尊厳」です。
東電福島の闘いは、どこかで沖縄の人たちとつながっているのでしょうが、今、それを、より鮮明に、共生・共闘の形にして行く時であるように思えてなりません。
伝えられている「…呆れ果てても、あきらめない!」は、武藤さんの武藤さんらしい言葉のように思えます。辺野古のキャンプシュワブ前で座り込んでいる沖縄の人たちは「勝てなくても負けない!」と、繰り返し語ります。福島と沖縄はつながっているのです。
2015年4月11日
菅澤邦明
[バックナンバーを表示する]