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2015年05月01週
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 「田川建三訳書/新約聖書/訳と註」の刊行の始まったのが、2007年です。
「パウロ書簡/その一」2007年、572ページ
「マルコ福音書/マタイ福音書」2008年、874ページ
「パウロ書簡その二/疑似パウロ書簡」2009年、820ページ
「ルカ福音書」2011年、534ページ
「使徒行伝」2011年、719ページ
「ヨハネ福音書」2013年、794ページ
 最新刊が「公同書簡/ヘブライ書」2015年、846ページで、残っているのは「ヨハネ黙示録」で、刊行予定は2016年となっています。
 刊行が始まってから8年、5156ページ、7冊が刊行されたことになります。膨大なページ数になっているのは、この「新約聖書/訳と註」の最大の特色である「註」が多いことによっています。註は項目が多いだけでなく、それが網羅する内容によっています。
 現在、一般に手にすることができる新約聖書の翻訳は以下のようなものです。
①「聖書/口語訳」日本聖書協会
②「聖書/新共同訳」日本聖書協会
③「聖書」岩波書店
④「聖書/原文校訂による口語訳」フランシスコ会聖書研究書
 ③、④は、註が付されていますが、一部の言葉の解説を欄外に示す程度の簡単なものです。
 田川建三訳著「新約聖書/訳と註」が①~④などの日本語訳聖書と大いに違っているのは、註の量の多さと、それを付する意味です。新約聖書の大半はギリシャ語で書かれた写本です。新約聖書の中でも、3つの福音書の写本の一つとしてまとめられているのが「Synopse Der Drei Ersten Evangelien」(Albert Huck)です。この写本には下欄に、写本によって異なる読み方が詳しく例として示されています。たった一言でも、写本の読み方の違い、あるいはそれがあるかないかで、意味が違ってくることがあります。Huckのテキストの場合には、詳しく示されている写本のどれが有力かなど、写本を理解する力も備えていないと、写本として示されていることの意味も無意味になってしまいます。
 田川建三訳著「新約聖書/訳と註」は、この写本の問題と、それがどんな読まれ方をしてきた結果、どんな聖書の言葉になったのかを、日本語だけでなく、英語、独語、仏語などの翻訳を広く詳しく検討し、時には研究の歴史にもさかのぼって、田川建三訳著の訳語を決定します。その決定の過程も余すところなく示す為、註の分量が圧倒的に多くなります。
 「6、公同書簡/ヘブライ書」の場合、「訳」が76ページ、およその10倍が「註」ということになります。新約聖書はギリシャ語の基本的な文法などの学習を、積み上げる努力を惜しまないなら、誰でもギリシャ語で読めなくはありません。それで、読めたと言ってる人もいなくはありませんが、前述の田川健三訳著で明らかなように、その成り立ち、研究の歴史などが充分に読みこなせない場合、一応ギリシャ語で読めたとしても、ほぼ「字面」をながめているにすぎなくなります。
 もう一つ別の大切なことで、田川健三訳註「新約聖書/訳と註」が徹底して大切にしているのは、「直訳」であることです。キリスト教という宗教の「聖典」とされてきた聖書は、「聖典」であることで、大きな制約を受ける、ないしは課してきました。ヨーロッパの中世の暗黒時代には、聖書は一般の人々が読むことも許されませんでした。流布していら聖書は特別の教育訓練を受けたラテン語を読める人だけの、ラテン語の聖書でした。ラテン語の「聖典」を読めるのは「聖職者」に限られていました。そして、「聖典」の「聖職者」によってまとめられた「教理」を前提に聖書を読むことが絶対であり、宗教改革の時代まで続きました。たとえば、ヨーロッパの宗教改革の原動力となったのが、自国の母語で聖書を読む為の聖書の翻訳でした。翻訳の働きは、聖書が「聖典」であり「聖職者」の独占であった時代に、聖書を自国の母語に翻訳するのはその人たちの命が代償となりました。「ウィリアム・ティンダル/ある聖書翻訳者の生涯」(D・ダニエル、田川健三訳)は、英語訳聖書の翻訳であり、その代償は「火刑」でした。
 という聖書の、字面をギリシャ語でながめる程度で、聖書について語る「説教」をしたりする仕事をしていて、田川健三訳著「新約聖書/訳と註」は、欠くことのできない書物です。著者が駆使する文献や註にもかかわらず(訳文の決定など、到底追いつくはずはない!)、要するに読みこなせはしないのですが、この書物は大切な目安にはなっているからです。「正確には読みこなせないなりに、新約聖書について語る時に、著しく誤りを犯さないぐらいの目安になっている」という意味で大切な書物なのです。
 英仏独などの新約聖書の翻訳や研究史も、更に写本の問題も踏まえ、それを註として克明に付す、こんな途方もない聖書の翻訳の仕事は日本ではもちろん諸外国でも例を見ないはずです。聖書をキリスト教理解の通念で読んでしまわない、田川健三訳著は広く一般にも読まれています(近くの書店で並んでいる様子からも、それが解ります)。聖書を一般にも読むに値する書物として、翻訳・紹介(註によって)したのが、田川健三訳著「新約聖書/訳と註」です。既に総ページが5000ページを超える書物の、もう一冊の「ヨハネ黙示録」が加わる(2016年12月予定)時、新約聖書という書物の存在の意味が、幾重にもふくらむことになるように思えます。「田川建三訳著/新約聖書/訳と註、1~7巻」はシオサイのコーナーでも手に取って見ることができます。
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