こぐま社の佐藤英和さん(こぐま社の創設者)から、「エドワード・アーディゾーニ/若き日の自伝」(阿部公子訳、こぐま社)と「詩集/ライラックの枝のクロウタドリ」(ジェイムズ・リーヴス、エドワード・アーディゾーニ絵、間崎ルリ子訳、こぐま社)、そして「『チムとゆうかんなせんちょうさん』の、エドワード・アーディゾーニ展」(5月23日~7月13日、銀座教文館9階、ウェンライトホール)の案内が送られてきました。
拝啓 ここ盛岡の郊外は新緑の候、ライラックの花が美しく咲いています。
お変わりございませんか。お伺い致します。
さて本日お届けする二冊の本は、私が最も愛するエドワード・アーディゾーニの挿絵のついた本で、かねてより出版を願っていたのですが、この5月23日より7月13日まで銀座教文館でアーディゾーニ展が開催されることになり、それを機会に出版したものです。この展覧会では私が集めてきた彼の著書原画、絵本などその画業の全容が見られますが、おそらく私が編集者としててがけてきた数々の仕事のなかで、最後のものになるかと思える感慨深いものです。
お楽しみいただければ幸いに存じます。
一筆献本に添えて
2015年5月 佐藤英和
さっそく、自伝を読みました。“帯”の紹介に「…全ページ挿絵入りなので、100年前のイギリスの日常生活も垣間見られ、興味がつきないでしょう」とある通り、アーディゾーニの挿絵の「若き日」の「イギリスの日常生活」が、家族や周辺の人間模様を描く文章を更に興味深いものにしています。生きた人間なら、こんな人も居て、こんな生き方もするであろう、その幅の広さ、深さが、挿絵と文章で余すところなく描かれているのです。
多くの子どもたちにとって、決して忘れることのできない絵本の一冊が、アーディゾーニの「チムとゆうかんなせんちょうさん」です。アーディゾーニの「チムとゆうかんなせんちょうさん」が誕生した経緯が自伝には書かれています。
「私たちは、蒸気船にも乗った。中には船長たちが地元のパブにいっているあいだ、留守番をしている船員が親切だったり、退屈をまぎらそうとしたりして、子どもに船を見せてくれる船もあったのだ。私たちは船橋(せんきょう)や機関室を見たり、船倉を探検したり、甲板に立って沖仲仕が働くところを見物したりした。よく追いかけられもしたが、それも冒険に彩りを添えるだけだった。
こうして波止場で過ごした日々は、後に実を結ぶことになる。その思い出が、チムの本の基となったのだ」(「エドワード・アーディゾーニ/若き日の自伝」(イプスウィッチ)。
子どもたちの心に届く物語は、生きた出来事の「思い出」や「記憶」が、表現はどうであれ、核心にきざみ込まれていてはじめて誕生します。アーディゾーニが、子どもだった時の、港と船と船員たちとの出会いが、子どもだったアーディゾーニの中にきざまれ、そのままにではなく、長いアーディゾーニの人生を経て、奇跡のように物語として甦ったのが「チムとゆうかんなせんちょうさん」です。チムは勇敢ではありません。勇敢なのは船長さんです。船が沈む事故になった時、その船と命を共にするのが船長である人間の使命です。船乗りにとって、船は命そのものだからです。日夜、船の手入れを怠らず、役割分担があって、そのどれか一つ欠けても、いざという時の致命傷になります。船が命であり、船に乗る一人一人も船の命なのです。子どもの頃の、船と船乗りたちとの出会いが、アーディゾーニにきざみ込まれていて、ある時、それが全く別の物語として甦ったのが「チムとゆうかんなせんちょうさん」です。チムは、勇敢であった訳ではありません。しかし勇敢なものたちのことを全身で知る、船乗りたちの小さな仲間である時、間違いなくチムは「ゆうかんなせんいんたち」の一人なのです。子どもたちは、そんなチムを「チムとゆうかんなせんちょうさん」の中で見つけ、自分もまた、「ゆうかんなせんいんたち」の仲間の一人になります。絵本「チムとゆうかんなせんちょうさん」のアーディゾーニの絵は、のんびり、ゆったりした砂場で過ごす人たちは、のんびり、ゆったり描かれ、ヨットのロープを引っ張るチムは、子どもなりに力が入り、話を聞く時のチムは、話を聞くのがうれしい様子がそのまま描かれます。そこに存在する一人一人を、そのまま共感できる人間として描くのです。その時の、顔や手指の動きの一つ一つに気を配っているように見えるのは、そのことを描く画家の使命感に忠実であるからのように思えます。
「チムとゆうかんなせんちょうさん」の、挿絵と言葉でつづられる物語のどのページも、子どもたちを魅了してやまないのは、そうしてできあがった作品だからです。
「エドワード・アーディゾーニ/若き日の自伝」は、後に「チムとゆうかんなせんちょうさん」を描くアーディゾーニを誕生させた、その幼少・青年期の「若き日」の発見の自伝として読むことができました。
同時に送られてきたのが「詩集/ライラックの枝のクロウタドリ」です。
ジェイムズ・リーヴスの詩は初めてですが、同じアーディゾーニの絵の「詩集・孔雀のパイ」(ウォルター・デ・ラ・メア、まさきるりこ訳、瑞雲舎)は手元にあって、詩も絵も大切にしている一冊です。
「ああ、なんと!」はこんな詩と挿絵です。
アン、アン!おいで、はやくきて!
さかなが口をきいている。
おなべの中の、鏡のようにすみきった
あぶらの中から首を出し、
口を開けると、『ああ!』といった。
それからじゅうじゅういいながら
おなべの中にしずんだよ。
「ライラックの枝のクロウタドリ」の「べんきょうぎらい」の詩と挿絵はこんな具合です。
べんきょうぎらい
あいつめ、どうしてチクタクいうの?
本やインクのむこうから、どうして白い、まるい顔して
ぼくをにらむの?ぼくをばかにしてさ。
どうしてあのツグミ、「ばか、ばか、ばか!」ってなくの?
どうしてあの青いやかん、フツ、フツわくの?
どうしてあのお日さま、なんにもいわずに照ってるの?
どうだっていいけどさ。
佐藤英和さんの「私が集めてきた彼の著書、
原画などの画集」から生まれた、アーディゾー
ニの挿絵の新しい詩集と、若き日の自伝で、ア
ーディゾーニが更に身近になりました。
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