「精霊の守り人」や「獣の奏者」などのシリーズで、2014年の国際アンデルセン賞に選ばれたのが上橋菜穂子です。広く深く世界と人間を見つめて描かれた作品は「彼女には一つの信念がある。それは『世界中のあらゆる人々が物語を愛しているという共通点を持っている』というもの。名誉と義務、運命と犠牲について描かれている彼女の物語は…」「そして彼女の作品は、自然や生物に対する優しさと、深い尊敬の念に満ちている」と、選評で評価されています。長い長い物語であるにもかかわらず、一気とは言わないまでも、読み続けられるのは、登場する一人一人の選ぶことのできない生き様に迫って描いた物語だからのように思えます。そして、40年、60年の世代を超えて(孫や娘!)、読み手たちをつなぐのも、上橋菜穂子の物語の底力であるように思えます。
「ジャングル・ブック」(ラドヤード・キップリング、木島始訳、福音館)をはじめて通読しました。(きっかけは「今ファンタジーに何ができるか」、ル=グウィン、です)。どの動物も、人間たちよりはるかに限られた条件のもとで、しかし見事に生きています。(ファーブルだったら「いのちって、すご!」「無駄な命はない。すべて役割をもっている」となります)。そんな動物たちの世界で生きることになったのが、人間の子どもモーグルです。「ジャングル・ブック」は、動物たちの世界から人間を見る、人間の発見の物語でもあるようにも読めます。キップリングは「キップリング短篇集」「ゾウの鼻が長いわけ」でも、さり気なく、しかし鋭く、残酷に人間をえぐって見せます。
「鳥たち」(よしもとばなな、集英社)は、雑誌「すばる」に掲載された後、単行本になっています。家族を失った(家族に自死された子どもたちに、どんな未来を歩めというのか?!)子どもたちが、自分及び自分たちを見つけるという極限の難しさを、「まこと」と「嵯峨」の物語「鳥たち」です。その時の生きる力の源になるのが、大きな自然の営みの中で、包み込まれるようにゆだねるようにして生きる古代人の営みから生まれた「チョンタルの歌」の言葉たちです。
「永続敗戦論」(白井聡、太田出版)。巷で口角泡を飛ばして論じられる政治化され、経済化される話題の、底の浅い事実を、歴史資料を読むという、基本の基本に立ち返って、明解に明らかにします。そうして見る時、福島で起こり続けているのは、そこで生きる人たちを「侮辱」する以外のなにものでもありません。
「沖縄差別と闘う/悠久の自立を求めて」(中曽根勇、未来社)の副題の「悠久の自立を求めて」は、沖縄で生きる人たち(ウチナンチュー)ではなく、実は他の誰よりも日本人、ヤマトンチウの問題であるはずです。それをほかの誰でもない、自分たちウチナンチューのこととして言及するのが、中曽根勇の「沖縄差別と闘う」です。12月18日、翁長雄志新沖縄県知事は「公的」にもとづいて「カジノ検討中止」の考えを公にしています(12月19日、沖縄タイムス)。普通の人たちが普通に生きる生活に身近なギャンブルの機会が日常的であるのは、どうであれ間違っています。その「間違っている」という感覚が普通に語られなくなっているのが、ウチナンチューの目にうつるヤマトンチューです。
「イエスとは誰か」(ジョン・ドミニク・クロッサン、新教出版)。「今ここでマタイとルカに『あれは実話ですか』と訊ねたら、『分からないのかい?的外れな質問だね』と言われるでしょう。導きの星はない、馬槽もない、ベツレヘムもない、羊飼いもいない、天使もいない、処女降臨もないと言うだけでは足りません。実話でなくて当たり前で、そんなことはどうでもいいからです。真意を問うことが大事です。神の顕われはいったいどちらなのか。皇帝かイエスか、帝国の繁栄か農村の貧困か、上から他人を押さえつけて束縛することか、下から他人を支えて解放することか。これがイエス誕生物語の真意を捉える問いなのです」。
以上、引き寄せられるようにして読んできた本の2014年の10冊とは別に、「アベノミクス批判」(伊藤光晴、岩波)、「イメージの力/国立民族博物館のコレクションにさぐる」(図録、発行、同館)などから、「力づく」ではなく、人間の生きる多様性から生まれる希望を多く学んだように思えます。
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