日本の戦争(太平洋戦争)は、1945年7月26日にポツダムで、米・英・中(中華民国)の協議で一致した「ポツダム宣言」を、同年8月14日に天皇の名において「受諾」することで終結しました。「朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」。13条からなる「ポツダム宣言」の、4、5条は「4、無分別な打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れた身勝手な軍国主義的助言者によって日本国が引きつづき支配されているのがよいか、または理性の道を日本国が歩むのがよいか、日本国が決める時が来た。5、われわれの条件は以下のとおりである。この条件からの逸脱はないものとする。これに代わる条件はないものとする。遅延はいっさい認めない」、そして最後の「13、…日本国政府がただちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、…これ以外の道を日本国が選択した場合、迅速かつ完全な壊滅だけが待っている」を、天皇の名で無条件に受諾します。
という、文字通りの無条件降伏、そこに示されている完全な「敗北」の事実にもかかわらず、多くの日本人は、13条からなる「ポツダム宣言」に強いて関心を示すことはありませんでした。勝ったものたちから、負けたものに対し有無を言わせず突きつけた屈服の通告であったにもかかわらず、その意味と事実を、ほとんどの日本人は我が身を削る事実としては聞かなかったのです。そんな「ポツダム宣言」を、具体的な歴史資料をもとに明らかにし、突きつけているのが「永続敗戦論」(白井聡、太田出版)です。で、初めて「ポツダム宣言」の原文に目を通すことになりました。気付いたのは、「ポツダム宣言」が、その後の日本の出発のどこにも位置づけられていないことです。たとえば文献として、どこかを検索すれば必ずその原文が見つかるという具合にはなっていないのです。パソコンのホームページなどで探すと出てくるのは「外務省仮訳文、原文(英語)」だったりします(「小さな手大きな手」西宮公同教会週報、2015年№10、11)。4,5,13条などを引用した「ポツダム宣言」は、「戦後史の正体」(孫崎享、創元社に「口語訳・文責編集部」として紹介されている)の訳文です。戦争の敗者に突きつけられた情け容赦のない宣言と、それを無条件で受け入れた天皇の詔勅で、戦争に負けた日本の戦後は始まりました。なのに一般に日本人が目にする戦後史のどこにも、その歴史的事実(資料)は位置づけられていません。
「無分別な打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れた身勝手な軍国主義」とポツダム宣言が断じ、その戦争の敗北から始まった国の形を表すのが「日本国憲法」です。前文は「政府の行為にとって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に有することを宣言し、この憲法を確定する」となっていて、「戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」が憲法第9条です。「①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際戦争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。②前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」。
2014年4月27日、日米両政府は「新たな日米防衛協力のための指針」に合意します。「1、防衛協力と指針の目的」は以下のように書かれています。「日本は『国家安全保障戦略』及び『防衛計画の大綱』に基づき防衛力を保持する。米国は引き続き、その核戦力を含むあらゆる種類の能力を通じ、日本に対して拡大抑止を提供する。米国はまた、引き続き、アジア太平洋地域において即応態勢にある戦力を前方展開するとともに、それらの戦力を迅速に増強する能力を維持する」為、「・切れ目のない、力強い、柔軟かつ実効的な日米共同の対応、・日米両政府の国家安全保障政策間の相乗効果、・政府一体となっての同盟としての取り組」となり(4月28日朝日新聞)、それに基づく「安全保障関連法案」で「武力行使」について2014年7月に閣議決定している「集団的自衛権」の行使が、「①我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態、②国民を守るために他に適切な手段がない、③必要最小限の実力を行使」です(6月10日、朝日新聞)。この閣議決定が、4月27日に合意した「新たな日米防衛協力のための指針」に基づいているとしたら、「『我が国と密接な関係にある他国』に武力攻撃が発生した時でも武力行使ができる」ことになり、前掲指針によれば当然その範囲は「アジア太平洋地域」はもちろん「米国は引き続き、その核戦力を含むあらゆる種類の能力」を及ばせている全世界ということになります。この、集団的自衛権の武力行使の前掲の「新3要件」を、代表的な憲法学者たちが憲法違反であると指摘することになりました。
ポツダム宣言の受諾に始まって生まれた日本国憲法の前文、その第9条の解釈では、既に「武力行使は、これまで『我が国』に武力攻撃が発生した時に限られる」と根本においてその精神は踏みにじられているとしても、2014年7月の閣議決定の「武力行使の『新3要件』」は全く別の意味の憲法違反であるというのが、憲法学者たちの見解です。
で、その見解に対して、「憲法違反」ではないとする政府見解の根拠として持ち出されたのが「砂川判決」です。「横畠裕介・内閣法制局長官は9日に公表した政府見解を説明、『憲法9条は砂川判決で示されている通り、自衛権を否定していない。これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性は保たれている』と砂川事件の最高裁判決を引き、法案の『合憲論』を展開した」(6月11日、朝日新聞)。
その「砂川判決」の要点は以下の3つぐらいになると考えられます(「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基づく行政協定に伴う刑事特別法違反被告事件」昭和34年(あ)七710号、同12月16日大法廷判決理由より)。
①「わが国が主権国として有する固有の自衛権は何ら否定されるものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」
②「同条項(憲法第9条2項)がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれを指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれが我が国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである」
③「本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであって、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、…純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない」
だから、「武力行使の『新3要件』」は「憲法違反」ではない、というのが今回の政府見解です。
砂川事件は1957年7月。米軍基地へ侵入し逮捕されたデモ隊の7人を、「在日米軍は憲法第9条2項で持たないことを決めた『戦力』に該当するため、その駐留を認めることは違憲」だから、無罪とした東京地裁判決は、1959年3月30日です。
砂川事件の最高裁判決は、1959年12月16日です。
日本の司法制度は、一般には原告・被告のどちらかが地裁判決に不服の場合、高裁、最高裁と争えることになっています。砂川事件は、高裁(東京高裁)をとばし、直接最高裁に上告されます。「跳躍上告」というのだそうです。この手続きと、最高裁判決に到るアメリカの介入と経緯のすべてを示す「極秘電報」が、アメリカに残されている「公文書」とその「公開」によって明らかになっています。以下、その一例です。「1959年3月31日(判決の翌日、マッカーサー駐日大使からハーター国務長官へ・極秘電報)。『今朝8時に藤山(外相)と会い、米軍と駐留と基地を日本国憲法違反とした東京地裁判決について話しあった。私は日本政府が迅速な行動をとり東京地裁判決を正すことの重要性を強調した。(略)私は、もし自分が正しいなら、日本政府が直悦、最高裁に上告することが非常に重要だと個人的には感じていると述べた。(略)藤山は全面的に同意すると述べた。(略)藤山は今朝9時に開催される閣議でこのことを承認するようにすすめたいと語った』」(「本当は憲法より大切な/日米地位協定入門」前泊博盛、創元社)。
砂川判決は、マッカーサー駐日大使の米国の指示通り前掲の①~③になり、その判決内容も事前にアメリカ側に打診した結果になりました。
「菅氏は3人の憲法学者の名前を挙げたが、『私は数ではないと思いますよ。憲法の番人は最高裁だから、その見解に基づいて今回の法案を提出した』」と、砂川判決を根拠に憲法学者たちの見解を否定する菅氏の答弁は言葉の使い方からして誤っています。日本国憲法の番人は日本国最高裁ではなく、砂川判決の時に最高裁の番人だったアメリカで、その「番人」は今も変わらず、日本国と日本国憲法と日本国最高裁の番人であり続けています。そして、憲法前文の「ここに主権が国民に有することを宣言し」の国民の主権も、日本国の菅官房長官自らがあらゆる意味で踏みにじっています。
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