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小さな手大きな手

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2015年06月04週
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 石牟礼道子との対談と往復書簡「遺言」(2014年、筑摩書房)のあとがきで、志村ふくみは、次のように書いていました。「ほそい月の光が見失うほど小さな虫の上にこそ射している。その虫の死にざまに逢うとき、ようやくわれも人間の一員であると思えると、そのような思想に出会えることのふしぎ、どこか宗教など遠く飛びこえて、低い地を這う虫に頭を垂れているひとがいるのである。いまだこういう方に出会ったことがなく、あの受難の地にあって、人類とは言わず生類と呼ぶ次なる世に燦然とした新しい思想が生れ、もし宗教というならば、それを本当に読みとくことのできる生類の一員でありたいと願う」。「低い地を這う虫に頭を垂れているひと」「人類とは言わず生類と呼ぶ」石牟礼道子がそのまま登場するのが、「あやとりの記」です。「あやとりの記」は、月刊誌「子どもの館」に連載されていたものが、1983年に「福音館日曜日文庫」の一冊に加わり現在は福音館文庫の一冊になっています。「あやとりの記」を数十年振りに読み直しています。そこには、「生類」の姿の一つが次のように描かれています。「…その蜘蛛の赤んぼうがこんなに無数に生まれ出て、樹々のあいだにひろがってゆくのは初めて見たのです。いったいどのくらいの赤んぼが繭から生まれてくるのか、目を近づけてみたいと思いましたけれども、それをあんまり近々とのぞきこむのは慎まなければならないような気がしました。みっちんは耳や首筋のあたりがもやもやするのを我慢していました。赤んぼたちの生まれる有様を、同じ木の枝のどこかで、山のひとたち、木の山の神さまたちが見ていらっしゃるような気がするものですから」。
 教会のウィンドウの写真は今、モリアオガエル、糸とんぼ、おたまじゃくしです。篠山市後川で借りている「田んぼビオトープ」の水及び水辺で生きる生きものたちです。本来田んぼであればそのままビオトープなのですが、現状はそうもいかなくなっています。日本全国隈無く圃場(ほじょう)整備されてしまった時、田んぼの水路も同時に整備され、水路の水の供給管理も地域・区域毎にポンプで揚水するシステムになりました。そして、冬期間の田んぼは地域・区域全域で水を抜いて乾かされて、大型の農機具で耕作しやすくしています。その結果、水田のビオトープとしての機能が失われ、水及び水辺で生まれる生きものを、そこで見つけるのはまれになってしまいました。後川の幼稚園で借りている「田んぼビオトープ」は、当面は耕作しなくなった田んぼで、そこがビオトープになっています。前述のような田んぼの状況であるにもかかわらず、それが可能なのは、後川の田んぼ(畑)の用水路の水は、揚水ではなく、山から、そして羽束川を流れる水がそのまま水路に流れ込んで使われているからです。後川の、田んぼをめぐる用水路には、一年中“清流”が流れています。借りている田んぼビオトープの水は地区の南側に位置する大野山の大小の沢の一つからの自然水(地下水)でまかなわれています。山に降った雨が地下水となって流れ出る沢水ですから、その年の天候によって多かったり少なかったりと左右されざるを得ません。沢水の供給の最優先は地区の人たちの夏の田んぼの水です。結果、田んぼビオトープは、夏のある期間干からびる寸前になり、田螺などが姿を消してしまいます。代わって繁殖を始めるのが、こなぎなどです。水辺で、青紫色の小さな花を咲かせるかわいい水草と思ったら大間違いで、あっという間に草抜きを断念させるぐらいの勢いで広がってしまいます。もし、田んぼにたっぷりの水(こなぎが隠れるくらい)があれば、そんなには育たないそうなのですが、普通の田んぼにそんな量の水を確保するのは、なかなか難しかったりします。今年になって田んぼビオトープの厳しいこなぎとのせめぎあいに、少し先が見え始めています。子どもたちが、後川に出かけるようになって5年、田んぼビオトープの水などのことで、少しばかり市民権を得るようになったからです。今、そのこなぎが、ちょっぴり水面から顔を出しそうになっていましたが、宿泊保育の時に田んぼの畦をかさ上げし、もう一度水の中に沈めてきました。こなぎは「小難儀(こなぎ)」でもあるそうですから、そうそう簡単にやっつけられる相手ではありません。昨年は田んぼビオトープ一面がこなぎになってしまいました。
 その田んぼビオトープでは、ウィンドウの写真以外の水と水辺の生きものたちに出会えます。かもが泳ぎに来て、飛び立っていきます。アオサギがゆっくり、ゆっくり歩き回っています。食べるものがそこで見つかるからです。それって、食べられる側にとっては、たまったものではないかもしれませんが、田んぼビオトープには隠れ場所もたっぷりあって、生き延びることも、種を残すことも可能にはなっているのです。
 後川へ行って田んぼビオトープに行く度に、そこで少しだけ生類の仲間にさせてもらっています。ただし、すぐに人間に戻ってしまうのが、この生類です。生類の人間の田んぼビオトープの仕事の一つが田んぼの畦の草刈りです。草刈り機のエンジンをうならせながら、畦の草をなで切りにします。そんな時、草の中を生活の場にしている生類が必ず犠牲になります。6月15日の田んぼビオトープの畦の草刈りでは、水辺にいたアカハラが犠牲になりました。“間一髪”で助かったのが、教会のウィンドウの写真のモリアオガエルです。畦の草むらに、草刈り機をうならせながら切り込んでいった時、このモリアオガエルはどんなに驚いたことでしょうか。草むらから跳び出しちょっと離れたあたりに着水したモリアオガエルは、その後しばらく身動き一つしませんでした。少し淡い緑色のモリアオガエルの自慢の背中には少し泥が残っていました。余りの驚きに泥を洗い流すのも忘れてしまった、という具合なのです。間一髪を生き延びて放心状態のまま、身動きもせずにそこにいる、というのがピッタリの様子のモリアオガエルでした。少しぐらいはすまないとは思いながら、そんなモリアオガエルを写真に収めてしまうのが人間です。
 読み直している「あやとりの記」で石牟礼道子が書いている生類が「黒と金色の横筋のある」蜘蛛の話です。「…いったいどのくらいの赤んぼが繭から生まれてくるのか、目を近づけてみたいと思いましたけれども、それをあんまり近々とのぞきこむのは慎まなければならないような気がしました」。「人類とは言わず生類と呼ぶ」人は、その生類の世界でその営みをのぞきこむのは慎まねばと言います。命の営みは、露わにならざるを得ないものがある一方、たくさんのものを内に秘め、時にはおおい隠しながら、今そこにあります。あるのだと思います。その「内に秘め、時にはおおい隠している」ものの中にこそ、命の真実、その核心(魂)が宿っていると言ってよいのかもしれません。石牟礼道子が生類の「…営みをのぞき込むのは、慎まねば」という時の命・魂です。そこにこそ、生類の仲間から外れたとは言え人間の、目には見えない命・魂が宿っているのです。
もしこの世界で、16、7才の命の只中で命を絶つ少年少女があるとすれば、命の魂の限りを渾身の力をふりしぼって生きる姿を示し得なかった、すべての大人の責任であるように思えます。16、7才の少年少女の命の無念は、その数十倍数百倍、命について理解し、かつ生きてきた先輩たちの無念でなくてはならないからです。
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