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2015年07月02週
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 「考える人」のインタビュー(2015年夏号・新潮社)がきっかけで、石牟礼道子の「食べごしらえ おままごと」を読んでいます。手元にあった、初版(1994年4月)の見開きの石牟礼道子の写真は、ほぼ正面を向いて文庫本(中公)のカバーの写真とは異なり、はにかむように微笑んでいる様子がかわいいのです。そこに添えられている言葉は、食べることを要にして、命が自分と生類のすべてに及ぶことを知るものによって書かれた文章です。
  
  美食を言いたてるものではないと思う。
  考えてみると、人間ほど悪食はいない。
  食生活にかぎらず、文化というものは、野蛮さの仮面にすぎないことも多  くある。
  だからわたしは宮沢賢治の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」  というのを理想としたい。
  もっとも米は一合米にして、野菜と海藻とチリメンジャコを少し加える。
  食べることは憂愁が伴う。
  猫が青草を噛んで、もどすときのように。
 
 「食べごしらえ おままごと」の第5項「梅雨のあいまに」は「のうぜんかつらの花の咲く頃は、よく雨がふる」で始まります。その、のうぜんかつらの橙色の花を、今、西宮あたりでもけっこう見かけます。「梅雨のあいまに」では「花の少なくなってゆく時期、雨上りのしっとりした人気のない路地の塀などに、ほのかな緋の色をした花が垂れているのは、いわんかたなくみずみずしい」と書かれているのがのうぜんかつらです。ただ、その時の花は、赤ちゃんを亡くした産婦さんと出会った産婦人科の病院の門柱の脇で咲いていました。のうぜんかつらは、美しいというより、「蔓性の樹」にからまって咲く様子が、鮮烈でかつ濃密な印象を与えずにおかない花です。「梅雨のあいまに」の、のうぜんかつらが強い印象を与えるのは、それが産婦人科の病院の門柱の脇で咲いていた記憶に始まるからのように思えます。一つの記憶が、もう一つ別の記憶と重なる時、その記憶は深く長くその人の中に残り続けます。
 年の末に、そして年が明けてからもあっちこっちで搗くもちつきでは、必ず蓬のもちを搗きます。子どもの頃の年の末のもちつきの蓬は、母たちが春に摘んで湯がき、乾燥したものをほぐして使いましたが、きれいな緑色ではありませんでした。しかし、もちつきと言えば必ず、蓬のもちを搗くのでした。ですから、子どもの頃に母たちから教えられたように、今でももちつきでは必ず蓬のもちを搗きます。その蓬は、ここ数年は、すべて篠山市後川で春に摘んだ蓬です。綿を育てるのに借りている、細長い畑の両側で育つ雑草の中の蓬は、太くてやわらかくて摘みごたえがあります。子どもたちが川遊びをする羽束川の土手にも、太くてやわらかくて摘みごたえのある蓬がいっぱい育っています。少し長めに摘んできた蓬は、その日のうちに先端部分だけを選り分けて湯がきます。沸騰した鍋のお湯に蓬を突っ込んで、もう一度沸騰した時に小さじ一杯分の重曹をふりかけ、泡立った瞬間に火を止めてざるにあけ、大急ぎで水洗いをします。ほぼ色が出ない程度に水洗いした後は、しっかりしぼってダンゴ状にし、ビニール袋を2重にして空気を抜き、口をしばり冷凍保存します。そうして、8,9か月経った年の末のもちつきで、自然解凍した蓬のダンゴが登場し、細かく刻んだ時の蓬の香りが蒸したもち米の湯気と一緒に広がった時、集まった人たちから小さな歓声があがります。1握りよりは大きい蓬ダンゴが15~16個が今は静かに冷凍庫で眠っています。昔の、母の頃の乾燥した蓬とは違い、冷凍保存の蓬は色も香りもほぼ春のままです。
 「食べごしらえ おままごと」の「山の精」に書かれているのは、蓬の天ぷらです。「葉緑素のかたまりのような5月の蓬は油とも相性がよく、揚げ物にしてやると、独特のアクがひらりとした香りになって食べやすい。なんとか、蓬そのものの厚味を食べたいのだけれども、上げると瞬間に水分が飛んでしまうのか、衣の中に鮮やかな緑が、一枚透けてみえるような天ぷらになってしまうので、蓬についての思い入れは深くなるばかりである」。
 一方、人間の気まぐれで選ばれ先端を摘まれた蓬は、それでもそこから枝芽を出して成長を続けます。本当はけなげにと言うべきところなのでしょうが、その他雑草の営みとしての評価しか受けず、挙句の果て、伸びきった蓬は草刈り機で一斉に刈り取られてしまいます。それでも、年を越し春になると、その同じ場所で芽を出します。「考えてみると、人間ほどの悪食はいない。食生活にかぎらず、文化というものは、野蛮さの仮面にすぎないことも多くある」、だから「食べることには憂愁が伴う」で、石牟礼道子の食べる人生の旅の「食べごしらえ おままごと」は始まります。
 つい先日、子どもたちと出かけた篠山市後川で、しまへびがとのさまがえるを頭からがぶりと呑み込んだすぐの場面を“見つけ名人”の子どもたちが見つけました。まだ半分以上残っていたとのさまがえるは、足をばたばたさせるのですが、確実にしまへびの口に呑み込まれていきます。足の指先だけになり、それも呑み込まれてしまった時、しまへびのノド(?)のあたりが呑み込んだとのさまがえるの分だけふくらみ、少しだけ動いていました。というしまへびにとって、その日の昼食は美味でかつ大ごちそうだったに違いありません。呑み込まれたとのさまがえるは、16,7時間後には(たぶん)しまへびのお腹の中で完全に溶けて更に消化されます(たぶん)。間違いなく美味でかつ大ごちそうだったのです。そして一つの命が余すところなくもう一つの命の源になるという、生類の営みの完結した姿がそこにでは起っていました。生類の中の人間の食を、石牟礼道子は「考えてみると、人間ほどの悪食はいない」と言います。蓬は、「揚げものにしてやると、独特のアクがひらりとした香りになり食べやすい」し、解凍しきざんだ蓬を、蒸しあがってせいろから臼に移したもち米に混ぜた瞬間に、あたり一面にただよう新鮮な緑の香りに、小さな歓声がわき上がったりもします。けれども、けれどもなのですが、その蓬は、たまたま人間の都合で見つかってしまい、人間の都合で都合の良さそうな部分だけが摘まれ、あげくの果てはその他大勢の雑草と一緒くたに刈り取られてしまいます。それでもなお、その蓬は“ひらり”とした香りであるのは間違いないとしても、それを都合よくあしらっていると言う意味では、「人間ほどの悪食はいない」ことになります。とのさまがえるをひと呑みにするしまへびのあの日の昼食は、名実共に余すところなく美味・大ごちそうだったのに比べると、人間というものはやっぱり悪食漢なのです。その篠山市後川で一昨日、7月21日からのキャンプで子どもたちが遊ぶ「どろんこ田んぼ」の畦道の草刈りで、草刈り機がまむしを真っ二つにしてしまいました。胴体が半分になっても、ぎゅっと鎌首をもたげてにらみつける首をナイフで落として、皮をはぎ、残りの半分も旧後川小学校の物干にぶら下げてきました。(キャンプ中、子どもたちが志願すれば、かば焼きにして食べることにしています。)




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