鶴見俊輔が亡くなりました。たくさんの文章、たくさんの本、たくさんの活動をしてきた鶴見俊輔のファンでした。50年程前学生の頃日韓条約の学習、講演会を開いたりしていました。その時の講師の一人が同志社大学の鶴見俊輔でした。同志社大学の和田洋一、京都大学の井上清なども講師でした。講演が終わると、貸し切りバスで神戸まで行き、「日韓条約反対」のデモ行進をすることになっていました。他の講師は、学習・講演が終わると帰りましたが、鶴見俊輔は、神戸まで一緒に行き、学生と一緒にデモ行進をし、学生たちに付き合いました。「そういう人なんだ!」ということが強く印象に残る人でした。そんな鶴見俊輔の書く本のファンになって、断片的に読んできました。断定したり、切り捨てたりしないけれど本質を明らかにする仕方が魅力で読んできたように思います。
1992年に、神戸学生青年センターで鶴見俊輔の講演会があり聞きに行きました。冒頭の「今日、ここに来るまでに、伊丹市立美術館でケーテ・コルヴィッツを見てきました!」の一言にびっくりしてました。同じ日の講演の前に、伊丹市立美術館で、ケーテ・コルヴィッツ(注)を見てから、講演に参加していたからです。
その時の講演の司会をしていたのは、西原基一郎さんです。1960年代の終わりから、ずいぶん可愛がってもらった人です。神戸で実業家として成功し、在日の人間としては韓皙曦(ハン・ソッキ)として朝鮮と日本のキリスト教の歴史の研究者であり、更にその文献を収集する働きにも力を尽くしてきました。相手が誰であれ、物怖じせず、単刀直入に言葉を投げかける韓皙曦さんは、講演の終わった鶴見俊輔さんに「あんたなぁ、いっぱい本書いてはるから、どれから読んでええかわからへんわ。で、この2冊いうことやったら、どれやろ?」と話を持ちかけました。で、「この2冊」にあげたのが「戦時期の日本の精神史」(岩波書店)と「アメノウズメ伝」(平凡社)でした。鶴見俊輔のファンとして、講演を聞きに行くにあたり、あわよくば「サイン!」で持参していたのが、実はその2冊でした。その時、その本を持参した人に負けないくらい、嬉しそうに顔をくしゃくしゃにしてサインをしてもらったその本は、今ももちろん残っています。と思って、書棚を見たら、なんと「戦時期日本の精神史」はケースだけで中身は空っぽでした。「だれだ!この本を持って行ったやつは!返せ!」。「アメノウズメ伝」は健在です。表紙カバーでは「小杉放菴画『天のうずめの命』」(出光美術館蔵)が、それはそれはいい顔で、おっぱい丸出しで踊っています。そして見開きには「How could she live otherwise/菅澤邦明様、鶴見俊輔」とサインしてあります。「戦時期日本の精神史」は、中身が見つからないので、岩波現代文庫版を入手して、読み直しています。自分の出自を「落ちこぼれ」という自己理解から始める鶴見俊輔は「戦時期の日本の精神史」で論究する「転向」でも、その現実と意味の「なぜ!」を問う時、何よりもまずその人に迫るところから始めます。断定ではなく、そこからの始まりに視点が据えられているのです。
鶴見俊輔と長田弘の「双書・20世紀紀行、全12巻、晶文社」の巻末に掲載された対談が一冊になったのが「旅の話」で、2人のこの対談で世界がずいぶん広がることになりました。中でも「アフガニスタンの風」(ドリス・レッシング)、「アレクサンドリア」(E.M.フォースター)などで、世界が広いこと、生きものの一つである人間というものの、おそろしいまでの魅力を知ることになりました。その「道案内」が「旅の話」です。
1995年3月、前述の韓皙曦さんから聞き出した電話番号で直接鶴見俊輔と直談判をしたことがあります。「兵庫県南部大地震の災害救助法が、被災した人たちを残しながら、『予定通り』切れてしまうことになんとしてでも抗議して欲しい」という内容でした。返事は「君とは、主張の仕方が違う」というような回答でしたが、延々1時間近く話に付き合ってくれました。
晩年の鶴見俊輔は、かつてのように幅広いテーマを、その独特の切り口で、どんどん書くということはなくなりました。2008年8月から始まった対談形式の「シリーズ 鶴見俊輔と考える」(編集グループSURE、発行)は、幅広いテーマに、対談者と切り結ぶユーモアたっぷりの言葉が、この人らしく引き出されています。シリーズ①は「中国の医術を通して見えてきたもの―天文学から『夜鳴く鳥』山田慶兒」です。何しろ「博学多読」の人なのです。SUREからは、2002年に「もうろくの春/鶴見俊輔詩集」が出版されて話題になりました。京都の小さな出版社SUREは、前掲の「シリーズ鶴見俊輔と考える」で、大書ではなく、しかし確実で視点をずらさない人間の言葉を発し続ける「小書」の出版の働きを続けています。そんな一冊が「海路としての〈尖閣諸島〉―航海技術史上の洋上風景」(山田慶兒、SURE)です。その島の帰属をめぐって不信をあらわにしあうのではなく、人と物が行き来する「海路」であることを、国・国境を越えて人々は知っていたのです。それを、「海路としての〈尖閣諸島〉」は、航海者たちの記録を発掘することによって明らかにします。鶴見俊輔の仕事の延長上にある仕事のように思えます。
1970年代の中頃だったと思いますが、東京駅でばったり出会って、顔は覚えていただいたようで立ち話をし、お互い駅弁を手にして乗ったのは、同じ列車でした。そして別の車両で京都、大阪に向かいました。鶴見俊輔がどこかで言ったか、書いていたその駅弁の話があって、そのことはずっと気になっています。それは「・・・列車に乗る時には必ず、『幕の内』を買う。世の中がどう変わろうと、自分がまともかどうかのバロメーターとして」というような内容だったように思います。
(注)
ケーテ・コルヴィッツという名前に最初に出会ったのは、魯迅の文章です。「…まず挙げなければならないのはドイツのコルヴィッツ(Käthe Kollwitz)夫人である。彼女はハウプトマンの『織匠』(Die Weber)のために刻した6枚の版画のほかに、なお3種ある。題目だけで、説明はない―1.『農民戦争』(Bauernkrieg)銅版7幅。2.『戦争』(Der krieg)木版7幅。3.『無産者』(Proletarat)木版3幅。(「『連続図画』 弁護」選集、第9巻、岩波)。「ちょうどこの時、コルヴィッツ教授の版画はヨーロッパから中国への途上にあった。だが、上海に着いた時には、その熱心な紹介者はすでに地中に眠っており、我々はその場所すらも知らないのである。それなら私がひとりで見よう。そこいあるのは貧困、疾病、飢餓と、死である・・・むろん抵抗と闘争もあるが、割合に少ない。これはまさに、顔に憎しみと憤りとを浮かべながらも、慈愛と憐憫との方がさらに多くうかがわれる作者の自画像と同じものである。これは、すべての『辱められ虐げられた』母親の心の画像である(「深夜に記す」選集第12巻、岩波)。言及されている、コルヴィッツの作品のいくつかを「魯迅美術論集」(未来社)で見つけ、その大半は1992年9月に伊丹市立美術館の「ケーテ・コルヴィッツ」で原画で見ることになりました。
沖縄に行った時に訪ねる佐喜眞美術館では、収蔵されているコルヴィッツの作品を、うまい具合に特別展にぶつかれば原画で見せてもらうことができます。
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