71歳になって、自分が生まれてからの71年を10年くらい単位で振り返っています。
生まれた1944年8月は敗戦1年前でしたが、富山湾をはさんで対岸の富山市が空襲で赤々と燃えているのを「記憶」しているのは、その多くは大人たちから繰り返し聞いていたからです。実際の富山大空襲は1945年8月1、2日で、死者2,737人、負傷者7,900人、焼失家屋24,914の被害でした。そうして始まった敗戦後の子ども時代の記憶で何よりも多いのは、食べものの記憶です。春と秋に、子どもたちは仲間と里山に分け入り、食べられそうな木の実、草の実をあさり、発見する名人でした。春はいちごやぐみ、秋はあけびを見つけるのに里山深く入り、あけびのつるが大きな木の先端まで伸びて実をつけていても、決して見逃すということはしませんでした。そして、白い花を咲かせるささゆりは球根を掘って食べました。里では近所の家の庭の柿やなつめなどを盗んで、おじさんに追っかけられたりしましたが、夕方にはカゴに入った柿が届き盗んだのがばれてしましました。
1950年代の中学時代は片道約5キロを、雨の日も風の日も雪の日も歩いて往復する3年間で、帰りは途中の小学校のグラウンドで日が暮れるまで仲間とボール遊びでしたが、田植え稲刈りの時にはそうもいきませんでした。小・中学校時代のいやな思い出は、父親が同じ小・中学校の教師だったり、中学校では叔母が数学の教師だったことです。
10代の後半の高校時代は、1年目の半分は片道約12キロを自転車で通いましたが、冬の間は同じ高校だった姉と叔父たちの燃料店の2階で共同生活をしました。そして、高校2、3年は父親の旧制中学で同郷で町工場を経営していたAさんの家に下宿させてもらうことになり、話好きのAさんと夕食後の1時間、2時間話し込むこともありました。町工場の責任者として政治も誠実に語り、生きる姿勢も崩さないAさんは人生で一番影響を受けた人です。高校1年のいわゆる60年安保の時には、ラジオのニュースで、樺美智子さんが亡くなったこと、世界史の教師が授業で熱弁する安保反対を少なからず共感しながら聞いていました。不思議なのは、その高校時代、3つのクラブに所属していたことです。相撲部は部員不足ですぐに消滅しましたが、物理クラブと弁論部は卒業アルバムにその2つのクラブの仲間と写真で並んで写っています。
その高校の2年頃に、「英語を教えてくれる!」という外国人の女性が主催する集まりに誘われて、そこでキリスト教と出会うことになります。同じ頃、父の従兄弟の医院の待合室で開かれていた「日本基督教団氷見伝道所」に顔を出すようになり、S牧師に誘われ、日曜日に高岡教会に出席するようになりました。そして、高3の夏前に自分では進路を神学部に決めましたが、家族の猛反対と夏中闘うことになり、後々になって聞くところによると母方の祖父が「…家族にヤソ教が一人くらいおってもいい!」の一言で同意することになったのだそうです。
そして1963年4月から西宮での5年半、大学の寮での生活が始まりました。その学生時代は、あれこれの「運動」で明け暮れする日々でした。ベトナム戦争、日韓条約などの反対運動・デモに、神戸・大阪・京都へと駆けめぐっていましたが、「党派」の活動がそんなに活発ではなかった西宮の大学で、それ以上深入りすることはありませんでした。そして、1968年10月に5年半在籍した大学を卒業することになるのですが、大学本部の大テーブルを囲んだ10人余りの特別の卒業式で、K学長が「…君!卒業できてよかったね!」としみじみ語って卒業証書を渡してくれました。大学が薬学部を新設する計画撤回を迫る徹夜の団交で「…君は、馬を水際まで連れて行くことはできるが、水をのませることはできない!」と口にしたK学長です。この時、団交が行われた講堂の明りに誘われて、柔道部の練習帰りにのぞいてしまったUさんは、後に弁護士になり、今も西宮公同教会・幼稚園の顧問弁護士です。
1968年10月に大学を卒業したものの無職だった次の年は、激しい「大学闘争」で明けます。卒業生ではありましたが、当然のようにそれに参加し、5月までバリケードの中で食うや食わずの生活をしていました。バリケードが機動隊によって解除された5月、偶然友人の紹介で神戸の薬局の店員の一人として拾ってもらうことになりました。そして7年半、薬局の店員として、毎日の仕事は陳列されている薬品のほこりを拭くこと、お得意様に自転車で注文品を届けることでした。ただの店員でしたが、薬剤師のおばさんが「…自分も勉強するから、一緒に漢方薬の勉強をしないか」と誘われ、あっちこっちの勉強会に参加し、文献などもずいぶん集めることになり、今もそれは残っています。その7年半と1970年代は、食べさせてもらう仕事とは別に、壊しそこねた大学と、壊しそこねたキリスト教を、徹底して考察することで過ごしてきたように思えます。「壊しそこねたもの」が何であるのか、決してそれには依らないで自分の生きる姿を作り出していくことに、文書を読むこと、聞くことに力を注ぎ、1980年代もそれが生き方となります。その時に「訓練」していたのが、「読むこと」「考察すること」「書くこと」で、対象に向い合うということではそんなに誤りを犯さなかったように思っています。その「読むこと」で、1960年代、70年代、80年代を通して指針になってきたのが、魯迅、武田㤗淳、竹内好、鶴見俊輔、吉本隆明、田川建三、石牟礼道子、澤地久枝などです。以上がもし「読むこと」であるとするなら、たとえば「政治」「宗教」も批判的に見つめることに徹してきました。そうして「考察すること」「書くこと」を「訓練」していて、1990年代が始まり、思いがけず起こったのが、1995年1月17日の兵庫県南部大地震です。あの、巨大な自然災害は文字通り思いもしない出来事でしたが、「立ち向かう」ことでは、あわてふためくなどということはありませんでした。唯一、そして決定的だったのは、たとえば幼稚園に在籍したり、在籍する予定の子ども、その家族が亡くなったことです。そんなことを起こしてはならないし、もし万一そんなことが起これば身を引く覚悟で生きてきて、たとえ自然災害とは言え、それが起こってしまったことの驚き、衝撃は計り知れないものがありました。その取り返しのつかない事実とは別に、「極大の自然の、極大の被害」の時の人間の営みを全力で引き受け全力で走ることになりました。「読むこと」「考察すること」「書くこと」の「訓練」でその準備はできていました。「読むこと」「考察すること」「書くこと」の「訓練」と「準備」をもとに、ひるむことなく書き始めたのが「じしんなんかにまけないぞ!こうほう」です。書くことにどれほどの意味と力があるか、たかが知れているとはいえ、一人の人間が生きたことの証しは「書くこと」によって自ら確認するという意味でも、身と心をすり減らしながら、時には出来事との格闘にわくわくしながら、昼夜を問わず「考察」し、それを「書いてきた」のが、「じしんなんかにまけないぞ!こうほう」です。大地震は、時間の経過の中で「遠く」なりますが、そこで「読み」「考察」「書く」営みに身と心を賭けて生きた日々は、2000年代の10年のその時々のどんな出来事にも、それを前提に強い意志で立ち向かってきました。
2011年3月11日に起こった、東北の大地震・大津波、そして東電福島の事故の時にも、「読むこと」「考察すること」「書くこと」で全力で立ち向い、4年半経った今も全力で走り続けています。
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