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小さな手大きな手

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2016年01月02週
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金時鐘(キムシジョン)の「朝鮮と日本に生きる/済州島から猪飼野へ」(岩波新書)が、2015年の大佛次郎賞に選ばれたことがきっかけで、手元にあった関連する本・詩集などを引っ張り出して読んでいます。年末に出版されていた、亡くなった鶴見俊輔の追悼出版の「まなざし」(藤原書店)には、金時鐘との対談「戦後文学と在日文学」が収録されています。2005年に藤原書店から出版された「金時鐘詩集選/境界の詩」に付された「解説」の為の対談からの再録です。それは、すぐれた金時鐘及びその詩理解についての言及であると同時に、日本及び日本人の詩についての鋭い論究にもなっています。「境界の詩」のあとがきの「詩が軽んじられ、詩人が疎まれる最もたる国の日本、などと数々毒づいてきたのは他ならぬ私であった」に、それが凝縮されています。
「朝鮮と日本に生きる」は、日本の植民地から「解放」された朝鮮半島が、分断統治され分断が固定されることになった1948年の「4・3事件」を軸に描いた、金時鐘の自伝です。それを大佛次郎賞に選んだ理由を選者の一人、池内了(宇宙物理学者)は次のように述べています。「皇国少年の時代から済州島における4・3事件までの朝鮮での若き頃の生き様と、日本に渡って来てからの在日朝鮮人として詩を発見するまでの暮しを、苦い侮恨の思いに立ち戻りつつ淡々と語っていく金時鐘の姿に熱い感動を覚えた。詳細な記憶とともに、自らが犯したさまざまな失敗を重ねた過去を真正面に見据え、それも一つの人生とばかり言い訳もせず、そのまま提示することの勇気に、誠実な生き方と覚悟を感じ取ることができる」(2015年12月20日、朝日新聞)。
済州島「4・3事件」は、占領軍(米軍)による分断統治から、分断が固定化することに反対して、武装蜂起した済州島民約3万人が、国軍及び米軍によって虐殺された事件で、金時鐘はその渦中から日本に逃れます。「朝鮮と日本に生きる」では、「4・3事件」の真相の一端が金時鐘の「詳細な記憶」をもとに綴られます。朝鮮半島が北と南に分断された南の歴史で、「4・3事件」の済州島及び虐殺された人たちは「反逆者」として、歴史から抹殺されてきました。「4・3事件」については、金石範(キムソクポム)のいくつかの著作などから、断片的に虐殺の事実について知らされてきました。「私(金石範)は済州島をテーマにしていくつかの作品を書いてきた。私が済州島を書く理由の中でもっとも重いものは、やはり自分がその血塗られたふるさとの島の、涙も乾きはてた人間たちの一人だということになるだろう」(「ことばの呪縛」筑摩書房)。「4・3事件の、3万を超えるとも言われる、済州島島民の虐殺が、深い闇の中に閉じ込められた事実は、今、虐殺されたおびただしい人たちの「発掘」によっても明らかになっています。その一つが金石範の「地の底から」(「すばる/2014年2月号」)だったりします。   
「血塗られたふるさとの島」の事件の闇は、簡単には終わりにはならないのです。そして、それを決して終わりにしない人たちの一人が金時鐘であり、大佛次郎賞の「朝鮮と日本に生きる」です。「…自らが犯したさまざまな失敗を重ねた過去を真正面から見据え、それも一つの人生とばかり言い訳もせず、そのまま提示することの勇気に、誠実な生き方と覚悟を感じることができる」人の自伝です。
その人の詩についての「詩論」で、「詩が軽んじられ、詩人が疎まれる最もたる国の日本」でえぐっているのは何なのだろうか。金時鐘の1955~1988年の詩を集めたのが「集成詩集 原野の詩」(立風書房)です。あとがきでは「…実際のところ日本の詩は、日本の私小説に結実して完成されてしまっているせいだ、というのが私の見方だ。心情や情感の機微を、同じように“詩”に求める論者の方にも、責任はあるというものである。いずれにせよ詩が軽んじられ、疎んじられているという点では、日本は大いに後進国のうちで最たる国だといってよい」(前掲「原野の詩」)。だったら、何が言うところの「詩」なのか。一部しか紹介できませんが、以下、1980年5月の光州事件の「光州詩片」「冥福を祈るな」の一節です。

それでこそふさわしいのだ。
浮かばれぬ死は
ただようてこそおびえとなる。
落ちくぼんだ眼窩に巣食った恨み
冤鬼となって国をあふれよ。
記憶される記憶があるかぎり
ああ記憶があるかぎり
くつがえしようのない反証は深い記憶のなかのもの。
閉じる眼のない死者の死だ。
葬るな人よ、
冥福を祈るな。

 たとえば「光州詩片」のこんな一節を目にする時、父たちのパプアニューギニアのことを思い起こします。父たちは生き残った自分たちと、おびただしい死んで行った戦友たちのことのすべてを「冥福」の中に閉じ込めたことで、すべてを闇の中に葬ることになりました。確かに、語らないことで、詩の言葉にもならないことで、「言い訳」はしなかったかもしれませんが、詩の言葉にした金時鐘の「…失敗を重ねた過去を真正面に見据え、それも一つの人生とばかり言い訳もせず」とは、大いに異なっているのです。
 中島みゆきのアルバムに入っていて、コンサートなどでは歌われることのない歌が「阿檀の木の下で」(「パラダイス・カフェ」1996年)です。

  阿檀の木の下で

  波のかなたから流れて来るのは
  私の知らない貝殻ばかり
  波のかなたから流れて来るのは
  私の知らない寿歌ばかり
  遠い昔のあの日から この島に人はいない
  みんなみんな阿檀の木になった
  波のかなたから流れて来るのは
  私の知らない国歌ばかり

  遠い昔にこの島は戦軍に負けて貢がれた
  だれもだれも知らない日に決まった
  波のかなたから流れて来るのは
  私の知らない決めごとばかり

  陽は焼きつける 阿檀は生きる
  大地を抱いて阿檀は生きる
  山の形は雨風まかせ
  島の行方は波風まかせ
  遠い昔にこの島は戦軍に負けて貢がれた
  だれもだれも知らない日に決まった
  だれも知らない木の根の下は
  主の見捨てた貝殻ばかり

 「解説本」(「中島みゆき、オフィシャル・データブック」ヤマハミュージックパブリッシング)では、「…15年も前から中島みゆきの中にあったテーマであり、…こうした形で本気を示すこと(示せる姿勢)も芸術家の条件であるはずだ」と書かれていますが、芸術家の条件としての「計算」が、「阿檀の木の下で」ではないはずです。いつか読んだ雑誌のインタビューで「どうして、詩が書けるんですか?」と聞かれ、確か「努力するから!」と答えていました。更に、「どんな?」と聞かれ、「真実を見る努力!周辺も見えてくる!」と答えていました。その答えの、そのまんま書かれた詩が「阿檀の木の下で」であり歌であるように読めるし聞くこともできます。「阿檀の木の島、沖縄を、誰が戦場の島沖縄にしてしまったのか、そして、戦争の後の島沖縄にしてしまったのか、歌われている阿檀の生々しさでえぐっているように思えます。
 1月8日~13日に予定している、辺野古新基地反対の座り込みで、集まった人たちの了解が得られたら、「チェンジ・かえる」と合わせて「阿檀の木の下で」をアカペラで歌えたらと思っています。

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