「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」(シロカニップ ランラン ピシカン、コンカニップ ランラン ピシカン)という、美しいリズムを持った言葉で始まる「アイヌ神謡集」(岩波文庫)を訳した時、訳者の知里幸恵は序で次のように書きました。「…太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ。僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。」そして序を「アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます」と結びます。「…あさましい姿、おお亡びゆくもの」と、「アイヌに生まれ、アイヌ語の中に生いたった私」と書く私、知里幸恵の「アイヌ神謡集」の、たとえば「銀の滴降る降るまわりに(シロカニップ ランラン ピシカン)、金の滴降る降るまわりに(コンカップ ランラン ピシカン)」は、今も、誰が読んだとしても「言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉」の輝き、言葉の力に心を揺さぶられるのです。
昨年2月から断続的に沖縄を訪ねていて、CD「弥勒世果報(みるくゆがふ)、アンダーワールド」(うないぐみ+坂本龍一)を紹介されました。詩は「うないぐみ」のたぶん古謝美佐子です。子どもたちと、ずっと今も歌っている「童神(わらびがみ)」も詩は古謝美佐子です。
弥勒世果報(みるくゆがふ)
1 海ぬ美(ちゅ)らさ 青い海ぬ美(ちゅ)らさ
我(わ)した島ぬ 永遠(とぅわ)ぬ宝 永遠(とぅわ)ぬ宝
2 空(すら)ぬ深さ 碧い空(すら)ぬ深さ
我(わ)した沖縄(うちなー) いちまでぃん いちまでぃん
3 花ぬ美(ちゅ)らさ 鳥(とぅい)ぬ声(くぃ)ぬ清(しゅ)らさ
美(ちゅ)らぬ島ぬ 想(うむ)い知らさ 想(うむ)い知らさ
4 人(ふぃとぅ)ぬ秀らさ 肝(ちむ)持(む)ちぬ秀らさ
肝(ちむ)心(ぐくる) 玉ぬ命 玉ぬ命
5 神々宿(やどぅ)る 沖縄(うちなー)ゆでむぬ
世界(しけ)ぬ世果報(ゆがふ) 守てぃ給(たぼ)り 守てぃ給(たぼ) り
6 波ぬ想(うむ)い 太陽(てぃだ)とぅ風(かじ)ぬ想(うむ)い
戦世(ゆ)ぬ 哀り知らさ 哀り知らさ
7 忘(わし)てぃ忘(わし)ららん 戦さ世(ゆ)ぬ哀り
童達(わらびんちゃー)に 語てぃ行かな 語てぃ行かな
8 星(ふし)ぬ光 我(わ)した地球(ふし)ぬ光
弥勒(みるく)世果報(ゆがふ) 願(ぐゎん)立てぃら 願(ぐゎん) 立てぃら
9 印無(ね)えらん くぬ島どぅやしが
平和ぬ想(うむ)い 深さあむね 深さあむね
10 人(ふぃとぅ)ぬ命(ぬち)や 天(てぃん)からぬ恵(みぐ)み
永らいてぃ 命(ぬち)どぅ宝 命(ぬち)どぅ命
11 地球(ふし)ぬ姿(しがた) 変わる事(くとぅ)ねさみ
変わるむねや 人(ふぃとぅ)ぬ心 人(ふぃとぅ)ぬ心
12 人(ふぃとぅ)とぅ人(ふぃとぅ)ぬ 争いや捨(し)てぃてぃ
世界(しけ)ぬ平和 真に想(うむ)い 歌てぃ願(にが)ら
語てぃ願(にが)ら 歌てぃ願(にが)ら
「弥勒世果報」には、自然、歴史や人間など沖縄のすべてが歌い込まれています。
沖縄の自然の海は美しいだけでなく、ずっと昔から沖縄の人たちの生活と結びついた命の海であり、沖縄の人たちが生きていく未来の「碧い海」なのです。
沖縄島に立った時、その強い日差しに驚かされます。碧くどこまでも広がる空は、戦争の道具が我がもの顔で飛び回る空であってはならないのです。
沖縄で、一年中咲いている花は赤は赤、白は白、黄は黄でくっきりと色鮮やかです。鳥たちの鳴き声も碧い空と咲く花と同じにくっきりと鮮やかです。
島の人たちは人間の賢さのすべてを、信義を尊ぶことを、親から子へと代々受け継いできた本物の魂のこもった命です。
それは、日々出会う人間に止まらず、島で生きるすべての生きものの命を尊ぶ場合も、何一つ変わりません。同じように神が宿っている命、それは沖縄の命そのものです。そんな世界を守り続けること、それは沖縄の命そのものです。
そこに存在するだけでも平和だった島の太陽と波と風、その沖縄島が、戦争の惨禍にさらされることになりました。降り注ぐ弾丸、飛び散る人間の命、なんと哀しい哀しい戦争だったことでしょうか。
決して、決して忘れることのできない戦争の惨禍、哀しい哀しい戦争の惨禍を、それがどんな哀しいことであっても、だからこそ子どもたちに語り伝えるし、子どもたちに聞いて欲しいのです。
広大な宇宙の小さな一つの星にすぎない地球の、小さな点にしかすぎない沖縄、しかし、大切な大切な私たちの沖縄であり地球です。どんなに哀しいことが起こったとしても、いつまでもいつまでも私たちの平和な沖縄、地球であって欲しい願いは変わらない。
あるか無いかの小さい小さい島沖縄、そこで生きる人間の思い、平和を思う心は、この小さな島から始まって、誰よりも世界の平和への願いで満ちている。
人の命は、例外なく天からの恵みであり、どんな人間のどんな命も、かけがえのない命なのです。
人間の生きる地球は、海も空もどんな時も、すべての命をはぐくむ世界であり、人間は、そんな地球の一つの生きものとして、そのことの驚き、喜びを忘れることがあってはならない。
人間もまたその地球の生きものの一つであるとしたら、そのことに驚き喜んで生きるのであるとすれば、何よりも人間と人間との争いではなく、言葉を歌を共有して生きる平和な人間として生きようではないか。大好きな歌で願い、語らい合ってその願いを伝えようではないか。
ひょっとしたら、「弥勒世果報」はこんなことを歌っているように思えます。それを伝える「弥勒世果報」の言葉の一つ一つが、美しくそして心にひびく生きた言葉として聞こえるのは、生きた人間の魂からほとばしり出る、生きた言葉であるからに違いありません。それはたとえば、戦争の惨禍を語るときも、強く激しく告発するのではなく「哀り知らさ 哀り知らさ」と、沖縄島の人間の言葉ウチナーグチ(島言葉)で語られる時、戦争は決して決して繰り返してはならないことを、心の底まで届かせる言葉の力になっているのです。
そんな言葉の輝き、言葉の力は知里幸恵が集めたアイヌの言葉につながっています。
「弥勒世果報」を紹介して下さったのは、読谷村在住の富樫守さんです。富樫守さんの友人で、同じ読谷村在住の古謝美佐子さんにサインをお願いし、「弥勒世果報」を卒園する子どもたちのプレゼントにさせてもらうことになりました。
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