3月20日頃、幼稚園の庭の桜の蕾がはち切れんばかりに膨らんでいました。先っちょがピンク色に変わり、数えられるほどの花が咲いて、そのままになりました。冷え込んでしまったからです。そんなことを繰り返して、3月末にやっと満開になるまで、桜の開花を楽しむことになりました。そんな桜の様子を手に取るように眺めることが出来るのが、幼稚園の桜です。
およそ35年前の幼稚園、教会の建物工事の折に、ほぼ現在と同じ位置にあった桜を、あれこれ検討はしましたが、残せないのが解りました。戦争の西宮の空襲をくぐり抜けた一抱えに余る桜を、せめて枝にして残そうともしましたが、製材所はバンドソウの破損を心配して引き受けてもらえませんでした。結果、桜の太い枝だけが、礼拝堂の水楢の大テーブル4本の足になって残っています。
現在の桜は、建物工事が終わった1981年から5年経った1986年に、亡くなった横山さやかちゃんを記念して植えられました。住宅の非常用らせん階段ぎりぎりに、それを囲むようにおよそ15メートルを超える広さに枝を広げ、更におよそ15メートルを超える高さまで枝を伸ばしています。らせん階段を上り下りする時、目の前の手の届く場所で桜の開花が見えてしまいます。下に立って、見上げるのとは違って、開花の一部始終を「観察」するという具合に見えてしまうのです。更に、らせん階段を一歩ずつ上っていくと、桜の満開を上から見ることができるのも、新鮮な驚きで、今年は、更に長く咲き続け、4月に入ってからの春の嵐で、一斉に散った花びらが地面を覆いつくしている様子も、それはそれは見事でした。川面一面に散った桜の花びらが流れるのを「花いかだ」と言うそうです。散って地面を覆いつくす桜の花びらは、何にたとえるのだろうか。
幼稚園の桜は、30年前、亡くなった横山さやかちゃんを記念して植えられました。告別式の折に幼稚園を代表して「おわかれのことば」を述べさせてもらいました。
さやかちゃん
さやかちゃんは、明るくてユーモアのあるとてもやさしい子どもでした。
つい一週間前に、呼吸がしにくくなって気管を切開してしまいました。
その時、お見舞に行きました。が「えんちょうだよ」って言うとにっこり笑おうとしてくれました。
大好きな「ニャンニャン」っていう言葉を言うと、呼吸器がついて苦しいのに、フンフンとうなづいてくれました。
さやかちゃんは、明るくてユーモアがあるから病院では看護婦のお姉さんや先生からもとてもやさしくしてもらいました。いつも、「さやちゃん」というやさしい声にかこまれていました。
さやかちゃんにとっては、あんまり好きではない点滴のビンにも横山さやかチャンと書いて下さいました。
さやかちゃんは、頑張り屋さんでした。幼稚園ではどろんこ遊びはもちろん大縄でもよく遊びました。
放射線や手術の後は、頑張り屋さんのさやかちゃんも、何度も繰り返されるのでがっくりきてしまいました。
でもリハビリのお兄ちゃんやお姉ちゃんに励まされると「ニャンニャン」と言ってうなずいていました。そして、何度も何度も頑張っていました。
さやかちゃんは可愛い女の子でした。入園の時、お母さんが公同ズボンの前と後ろを間違えてピンクのフェルトに名まえを付けてしまいましたが、そんなことは少しも関係がなく可愛い女の子でした。
でも、手術の度に髪の毛を取られてしまいました。頭も少しデコボコにされてしまいました。そんな時、さやかちゃんは、さおりちゃんといっしょにとった髪の毛がいっぱいの写真で「これが本当のさやかちゃんだよ」といいました。
吉祥寺のおじいちゃん、おばあちゃんの家に退院していた時、公同まつりのおみやげを元のさんぽ組のみんなから預かって行きました。その時、おじいちゃんが写して下さった写真では、さやかちゃんは、かつらを被っていました。その時のさやかちゃんの写真を持っていますが、可愛いいよ。
さやかちゃんは、自分の病気のことは本当は知らなかったと思います。
おととしの末頃、さやかちゃんはあんまり幼稚園に行きたくない時がありました。その時、お母さんは暴れん坊にいじめられるからかなぁと思いました。そうだったらどんなに良かったかと思います。
去年になって子ども病院に入院した時からただならないことが解ってきました。それでもさやかちゃんは、七月の星まつりに元気に参加してくれました。
その時しんどいけれど、楽しそうだったさやかちゃんの顔が忘れられません。
東京の病院に行くのが決まって先生たちみんなで送りに行きました。
さやかちゃんがあんまり元気がなかったので、心配しました。その時さやかちゃんの大好きな江里先生はさやかちゃんのお家と反対の方向に行ってしまい結局さやかちゃんとは会えませんでした。
さやかちゃんは今年の四月からほんのちょっぴりでしたが、念願の小学校へも行きました。
さおりちゃんと同じクラスで、もっともっとたくさんの新しい友だちと新しい世界が広がるはずだったろうに残念です。
さやかちゃんが東京の病院へ行った時、公同のみんなで公同の歌のテープをプレゼントしました。さやかちゃんは毎日病院でもお家でも公同の歌を歌いました。
あのテープにはさやかちゃんの大好きなこうじ君や、ともひと君、いさむ君がいっしょに歌っています。よしこちゃん、かおりちゃん、さちこちゃん、めぐみちゃん、いくえちゃん、ともこちゃん、もとこちゃん、みやこちゃんも歌っています。
八月の中頃に順子先生が病院に泊まった時、まだ声が出せたので「どろんこと太陽」や「うみでおよぐ」をいっしょに歌ったんだってね。
五月に府中のお家に行った時、さやかちゃんは少ししんどそうでしたが、えんちょうが行ったら少し元気になりました。
その後しばらくして入院し、もうお家には帰れませんでした。
さやかちゃん、よく頑張ったよ。
さやかちゃん
えんちょう先生たちは本当にさやかちゃんからたくさんのことを教えてもらいました。健康であることはもちろん、人間が生きていることのすばらしさをさやかちゃんに会う度に教えられました。
さやかちゃんにとっては、もっともっとたくさんの友だち、もっともっとたくさんすばらしい人生を生きることができなかったのは残念でした。
さやかちゃん
えんちょう先生たち大人は、もっともっと子どもを大事にしなくてはならないことを教えられたよ。大人の勝手で子どもたちをふり回してはいけないことを教えられました。
いつか大人になる子どもではなくて、子どもとして生きる毎日をいっしょになって大切にしたいと思っています。
最後にさやかちゃんの大好きだった村上こうじ君たちと歌ったどろんこと太陽を歌います。
1986年9月3日
日本基督教団西宮公同教会所属
西宮公同幼稚園
園長 菅澤邦明
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