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小さな手大きな手

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2016年05月03週
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 久しぶりに、岩波書店の「世界」に目を通しています。「チェルノブイリの祈り」のスベトラーナ・アレクシエーヴィチが2015年のノーベル文化賞になり、受賞記念講演の全文も、「世界」で読むことになりました。ノーベル文学賞を機に、アレクシエーヴィチの別の作品の発行が岩波書店になり、入手しやすくなりました。「ボタン穴から見た戦争/白ロシアの子供たちの証言」「戦争は女の顔をしていない」などです。中でも「ボタン穴から見た戦争」は、「世界」2016年3月号に掲載されたノーベル文学賞受賞記念講演のコピーと一緒に、教会学校で小学・中学・高校などを卒業する14人のプレゼントになりました。
 同じ「世界」3月号の「福島・甲状腺がん多発の現状と原因」(津田敏、岡山大学大学院環境生命科学研究科)は、福島のすべての子どもたちの甲状腺検査で見つかっている100人を超える患者のことに言及しています。患者が多発しているのに、「因果関係が『証明されていない』」ことを理由に、東電福島の事故による被曝の問題は否定されています。「…因果関係に関する議論が混迷し、白熱したり人を沈黙させたりするのは、その概念を知るための基本的な約束事が知られずに議論されるからである。概念で、直接観察が不可能なので、思いつくままに何だって言いうる」。しかし、「…何だって言いうる」間に、患者が100人を超えてしまっているとしたら、(「年間100万人あたり1人か2人発生のがんが、35万人中112人見つかっている」としたら)、「論争の段階から、すでに説得の段階になっている。説得する相手は福島県や日本政府である。科学的根拠に基づいた保健医療政策の立案が必要である。それもできるだけ早急に、できるだけ着実に」が、この問題の「世界」の論文の提言です。
 4、5月号の論文「『公定力理論』という『空洞の権威』/辺野古『代執行裁判』と国の主張」、「辺野古・代執行裁判『和解』の正体」(いずれも、五十嵐敬喜)は、国の主張とそれに対する沖縄の取り得る態度を明解に論じているように読めました。「辺野古の代執行裁判でも、裁判所は大仰な『公定力理論』を撤回させ、公有小面の埋め立ての合法性・正当性の審査に入るべきであり、そこに入れば、裁判所は軍事基地よりもジュゴンの生存に軍配をあげざるを得なくなると、私は信じている。信託の理論は、行政が国民の信頼を裏切った場合には、一切を拒否してもよい、という理論である。裁判所が万が一、公定力のような理論で国民の期待を裏切るようであれば、沖縄はそのような状態に入るであろう」。「また論客、佐藤優氏は国があくまで基地建設を強行しようとすれば、知事を先頭に現地で『一万人の座り込み』が始まり、これには国も手が出ないだろうと警告している。裁判所がどのような判決を出そうが『沖縄』は死なないのである」。この明解な論文の「一切を拒否してもよい」「『一万人の座り込み』が始まり」になってしまうとすればその一人でありたいと願います。
 で、そんな論文の「世界」をあれこれながめていて、5月号の最後のページに見つけたのが「栗原康/著者からのメッセージ『村に火をつけ、白痴になれ』(伊藤野枝伝)」、「オレ、伊藤野枝」という短い文章です。で、さっそく伊藤野枝の伝記「村に火をつけ、白痴になれ」を読むと同時に、かつて、「甲山学園事件」の集会で何度か出会った野枝の娘、伊藤ルイの本なども読み直すことになりました。「海の歌う日/大杉栄、伊藤野枝へ/ルイズより」(伊藤ルイ)「ルイズ、父に貰いし名は」(松下竜一)です。
 著者の伊藤ルイさんや松下竜一さんとは直接会う機会もあって、前掲の本などは目を通していましたが、伊藤野枝や大杉栄、そのアナーキストとして歩んだ歩み「思想」のことは全く不勉強でした。 一般人に、「危ない」とされる(らしい!)アナーキズム、無政府主義を、たとえば紹介される「アナキズムの理想」を、伊藤野枝は次のように語っていたりします。「…私どもは、無政府共産主義の理想が、到底実現することのできないただの空想だという非難を、どの方面からも聞いてきた。中央政府の 手をまたねば、どんな自治も、完全に果たされるものでないという迷信に、皆んながとりつかれていることに、世間のものしりたちよりはずっと恥明な社会主義者中のある人々でさえも、無政府主義の『夢』を嘲笑っている。しかし私は、それが決して『夢』ではなく、私どもの祖先から今日まで持ち伝えて来ている村々の、小さな『自治』の中に、その実現を見ることができると信じていい事実を見出していた。いわゆる『文化』の恩沢を充分に受けることのできない地方に、私は、権力も、支配も、命令もない、ただ人々の必要とする相互扶助の精神と、負の自由合意による社会生活を見た」(「村に火をつけ、白痴になれ」、伊藤野枝全集・第3巻)。
 昨年2月から、断続的に辺野古新基地建設反対の座り込みに参加してきました。きっかけになったのは「辺野古って、なに?/沖縄の心はひとつ/7月27日沖縄『建白書』を実現し未来を拓く島ぐるみ会議結成大会発言録」(「沖縄『建白書』を実現し未来を拓く島ぐるみ会議編」七つ森書館)で、2014年9月3日の沖縄県議会の「意見書」で、「…これを全く無視して埋立工事を強行したことは、民主主義をじゅうりんし、沖縄県民の尊厳を踏みにじるものであり到底容認できるものではない。怒りを込めてこの暴挙を糾弾する」などの言葉を見つけたのが大きかったように思います。生きること、生き方において「尊厳」をもってするという意味でのこの言葉は、「権力も、支配も、命令もない、ただ人々の必要とする相互扶助の精神と、真の自由合意による社会生活」ということであれば、沖縄はもちろん、戦争の悲惨があたりまえになってしまっている世界のどこであっても、その最前線で「尊厳」を語って生きることとして、その意味は失われないように思えます。それが「死語」になっている日本で、世界に向かって、臆することなく「尊厳」を語る現場があるとすれば、たった一人であっても、そこに駆けつける意味があるし、持ち帰る何かがあることを確信し、座り込みに参加することになりました。
 その「現場」、沖縄県名護市辺野古、辺野古新基地反対の人たちが集まる米軍基地ゲート前では、歌声の絶えることがありません。沖縄で沖縄のリズム三線で歌いつがれてきた歌と踊り、歌でつながった人たちの歌、自分の思いを歌にたくす人たちの歌などが、激しい座り込みが少しゆるやかになった時に、渦中でも歌われるのです。生きた歌が生きる人たちによって歌われるという具合に。 height=1
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