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2016年05月05週
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 アナーキズム(…キスト、無政府主義、…主義者)を、今までその言葉以上に関心を持つことも、知ることもありませんでした。敢えて言えば、「ただ乱暴に壊すこと、ないし暴力的な振る舞い」ぐらいに理解してきたように思います。
 その、アナーキズム(…キスト、無政府主義、…主義者)は、ちょっと違う、いや大いに違うこと、及び全く逆に、大いに建設的な思考であり生き方でもあることを、たまたま目にした「村に火をつけ、白痴になれ/伊藤野枝伝」(栗原康、岩波書店)で知ることになりました。その本が紹介されていたのは、岩波書店月刊雑誌「世界」の5月号です。かつては(それこそ、50年以上前には)読んでいて、遠ざかっていた「世界」を、2016年1月号から、とりあえず毎月読むことになっています。
その1月号を手にすることになったのは、特集の「終わりなき『対テロ戦争』」の論文の一つ「『テロ戦争』という文明的倒錯、西谷修」が新聞広告の目次で目にとまったからです。(1月号のもう一つの特集は「沖縄」で、「沖縄は新基地を拒む」翁長雄志、「軍事戦略の中の沖縄」伊波洋一、「戦後沖縄・歴史認識アピール/沖縄と日本の戦後史をめぐる菅義偉官房長官の発言に抗議し、公正な歴史認識をともにつくることを呼びかける声明など」)。
10年程前(たぶん)、雑誌(UP)で映画「慟哭のエレナ」(テオ・アンゲロプロス監督、ギリシャ)を紹介していた西谷修の文章を読み、その映画がどうしても見たくなり、たまたま新聞の隅っこで滋賀県、大津市の小さな劇場で上映される案内を発見し、かけつけて以来(紹介どおり、期待通りの映画だった)、西谷修は忘れられない名前になりました。
1月号以降、2、3月号の「終わりなき韓国行」(金石範)、3月号の「負け戦」(スベトラーナ・アレクシェーヴィチ、2015年ノーベル文学賞受賞記念講演)、「福島・甲状腺ガン多発の現状と原因」(津田敏秀)、4、5月号の五十嵐敬喜の論文「辺野古『代執行裁判』と国の主張/『公定力理論』という『空洞の権威』」「辺野古・代執行裁判『和解』の正体」などは、「科学者・専門家が多くの人々を惑わし苦しめるような、歪んだ情報発信や政策への関与を行うに至った理由をよく考え直してみたい」(「つくられた放射線『安全』論」島薗進、河出書房新社)を軸にすえるとすれば、それぞれが科学・専門である「道」を踏み外さないことの自覚が貫かれた論文であるように読めました。
だと思われる雑誌「世界」5月号の、広告のページの最後に見つけたのが、栗原康さんによる「著者からのメッセージ『村に火をつけ、白痴になれ/伊藤野枝伝』」の紹介でした。野枝の娘、伊藤ルイさんは何度も会う機会があり、かつ福岡の自宅まで訪ねたこともありましたから、すぐに手に入れて読ませてもらいました。伊藤ルイさんについては、「ルイズ、父にもらいし名は」(松下竜一)でも知っていましたが、母・野枝と大杉栄のアナーキズムもアナーキストとして生きた生き様―具体的な思想内容は「伊藤野枝伝」で初めて読むことになりました。
野枝や大杉栄のアナーキズムは「ただ乱暴に壊す、ないし暴力的な振る舞い」ではありません。たとえば、辞書には、字義としては「無政府主義・国家などすべての権力と強制を排除し、個人の完全な自由と独立を保障しようとする空想的な理想主義。アナーキズム」と書かれていたりします(「新明解国語辞典」三省堂)。辞書の字義の「国家などすべての権力と強制を排除し、個人の完全な自由と独立を保障しようとする」が、無政府主義・アナーキズムであるとすれば、現に今、強制力そのものとして機能している一人一人がどっぷりつかっている「国家」は、それを許したりしません。「問答無用」です。無政府主義・アナーキズムなるものは、その思想も、それを生きた人たちも、この「国家」はあらゆる意味で抹殺します。アナーキズムの、生きた思想の生きた事実は、陰に日に強制力そのものである国家は決して認めたりはしないのです。とは言うものの、「伊藤野枝伝」で紹介されている、野枝の生き方そのものでもあった思想は、「国家」が毛嫌いする「ただ乱暴に壊す、ないし暴力的な振る舞い」などでもありません。

私どもは、無政府共産主義の理想が、到底実現することのできないただの空想だという非難を、どの方面からも聞いてきた。中央政府の手をまたねば、どんな自治も、完全に果たされるものでないという迷信に、皆んなが取りつかれている。
ことに、世間のものしりたちよりはずっと聡明な社会主義者中のある人々でさえも、無政府主義の『夢』を嘲笑っている。
しかし私は、それが決して『夢』ではなく、私どもの祖先から今日まで持ち伝えて来ている村々の、小さな『自治』の中に、その実況を見ることができると信じていい事実を見出した。
いわゆる『文化』の恩沢を充分に受けることのできない地方に、私は、権力も、支配も、命令もない、ただ人々の必要とする相互扶助の精神と、真の自由合意による社会生活を見た。
(「村に火をつけ、白痴になれ/伊藤野枝伝」)

小黒英二の「所属なき人見えていますか」(オピニオン&フォーラム、2016年5月26日)によれば、統計上40%とされる「非正規雇用」の「第二の国民」は「低収入で家族もいない」上に、更にその声も放置されています。そうだとすれば、前掲の伊藤野枝の「アナキズムの理想」は、「夢」ではないし古くはない、「現代日本」にそのままあてはまる言葉として読めます。
来日したことで、更に話題になった、前ウルグアイ大統領のホセ・ムヒカが、最も傾倒した人たちは無政府主義者です。「本当の意味で自由が尊重されるのは無政府状態(アナーキー)だ。だからこそ、私はあらゆるイデオロギーのなかで無政府主義(アナーキズム)に一番関心がある。しかし、人間の自由とは、責任の不在や、制限がないことを意味しているわけではない。制限とは、他人に迷惑をかけないことだ。そして、他人を搾取することなく自分で努力して、さらに多くのことを達成できるのなら、それは賞賛に値する」(「悪役/世界でいちばん貧しい大統領の本音」汐文社)。
3月、5月と相次いだ、沖縄での米軍・軍属の女性に対する暴行事件で、問題になっているのが日米安全保障条約のもとにある「日米地位協定」です。米軍・軍属の事故・事件の捜索・裁判などで、米国・米軍の優先権を約束するのが「日米協定」です。いつどこでも米軍基地にぶつかってしまう沖縄と、米軍基地がほとんど存在しない兵庫県などでは、「日米地位協定」の持っている意味は全く違っています。事故・事件の当事者の責任が問えない「日米地位協定」のもとに置かれた沖縄で起こり続けてきたのが、3月、5月と相次いだ、沖縄での米軍・軍属の女性に対する暴行事件です。
その沖縄を、「沖縄戦後民衆史」(森宣雄、岩波書店)は「沖縄の『いま』が浮かび上がる」事実として、たとえば以下のように書きます。
「三つの潮流・軸をより一般的な琉球・沖縄の歴史文化のことばでまとめれば、こうなるだろう。(1)生まれ島の自治とじえいの精神を基盤にした『島ぐるみ』の主体化と団結、(2)島々の多様性・流動性・開放性に根ざした普遍・越境への渇望、(3)国家など統治権力(の変遷)からの社会的自立、またその歴史観。近代政治学のことばにすれば、ナショナリズム、コスモポリタニズム、アナキズムに相当する」。
「日米地位協定」の現実と対峙する沖縄の「三つの潮流」で論究されていることは、野枝の「いわゆる『文化』の恩沢に充分に受けることのできない地方に、私は、権力も、支配も、命令もない、ただ人々の必要とする相互扶助の精神と、真の自由合意による社会生活を見た」に、限りなく近いようにも思えます。 height=1
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